| 屍鬼祓師: お友達クラブ (Noir文庫) | |
| 粟生慧 | |
| カルテットパブリッシング (2018) | |
黄泉の屍鬼(しき)やその魁(さきがけ)となる泥蛆(でいそ)を祓(はら)うことを生業にしている一宮晶良(いちのみやあきら)とその助手・諏訪陽仁(すわはると)は、浄化を依頼された部屋で不可解な焦げ跡を目にする。
一方、陽仁の妹の中学校ではお友達クラブという正体不明のクラブが流行っていた。
お友達クラブ、不可解な失踪事件、謎の焦げ跡、奇妙な瓢箪型のマーク。それらを追っていくうちに、釈卓也(しゃくたくや)という男にたどり着く。それぞれがバラバラな事件に見えながらも、少しずつ繋がりを持ち始める。
その真相を解明するために、美麗な拝み屋が助手とともに失踪事件の謎を紐解くホラーミステリ!
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黄泉の屍鬼(しき)やその魁(さきがけ)となる泥蛆(でいそ)を祓(はら)うことを生業にしている一宮晶良(いちのみやあきら)とその助手・諏訪陽仁(すわはると)は、浄化を依頼された部屋で不可解な焦げ跡を目にする。
一方、陽仁の妹の中学校ではお友達クラブという正体不明のクラブが流行っていた。
お友達クラブ、不可解な失踪事件、謎の焦げ跡、奇妙な瓢箪型のマーク。それらを追っていくうちに、釈卓也(しゃくたくや)という男にたどり着く。それぞれがバラバラな事件に見えながらも、少しずつ繋がりを持ち始める。
その真相を解明するために、美麗な拝み屋が助手とともに失踪事件の謎を紐解くホラーミステリ!
屍鬼祓師
お友達クラブ
粟生慧
Noir文庫
イラスト:福田素子(漫画家)
屍鬼祓師 お友達クラブ
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プロローグ
校庭ではサッカー部と野球部の男子がトラックに沿って、掛け声を上げながら走っている。遠くから基礎練習の掛け声やバットがボールを打つ音が聞こえる。
夏げし至を過ぎてもまだ梅つゆ雨が来ない。空には入道雲ともつかない曖昧でいて、見た目だけは大きさも厚さも重たい雲が浮かんでいる。
七月にもなっていないのに、風は校舎のコンクリートの壁に熱せられて、不愉快なほどじっとりと水気を含んで吹き付けてくる。
校舎の白い壁に真まそほ朱色の日差しが映り込み、毒々しい感じがする。壁に並ぶ窓は深しんしん々と黒く、校舎のなかにもう誰も残っていないのがわかる。
旧校舎と新校舎を繋ぐ、渡り廊下を二人の少女が歩いていく。昇降口のある新校舎に向かっているのだ。
渡り廊下の片側は校舎の壁で、傾いた日差しにひさしの影が差す。ふたりの影法師は足ばかりが長く赤い壁に黒々と伸びている。
傾きはじめた日差しは火を熾した炭火のような暑さで、ジリジリと半袖シャツから出た肌を焼いてくる。
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二人の顔はちょうどのひさしの影と重なり輪郭だけが、校舎の壁から反射する濃いオレンジ色の光に浮かぶ。
足早に渡り廊下を行く少女たちはこれから向かう場所の話をしている。
ボブカットの少女が、高たかち知理りお緒に一生懸命話しかける。
「たかっち、早くしないと待ち合わせに遅れちゃうね」
「英単赤点だからって二時間も自習とかバッカじゃないの」
理緒は少し茶味がかった三つ編みを振りながら急ぎ足で新校舎の階段に足をかけた。
「この間、たかっちがお友達クラブに誘ってくれたときめっちゃ楽しかったー」
「ね、みほりん、来てよかったでしょー? 変な勧誘とかじゃないんだから」
二人は新校舎の階段を上りきって、窓から差し込んでくる真っ赤な細長い光を踏んだ。
灰色のリノリウムの床を夕焼けが血薔薇色に染め、まるで枠のなかに血糊を流し込んだように見える。
久ひさいし石美みほ穂が新校舎に入るとむわっとした空気が体を包んだ。湿気を含む空気に背中から汗が吹き出してきて、思わず手うちわで首筋に風を送る。
「暑いー、うちの学校もクーラー付けたらいいのに。待ち合わせ、七時だっけ? また先輩が車出してくれるんだよね?」
美穂は理緒が返事をしないので、少し焦じれて振り返った。
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理緒がちょうど新校舎と階段の縁に立ち尽くして呆然としている。
「たかっち、どうしたの?」
理緒が不安そうに呟く。
「ねぇ、電気って消えてたっけ?」
「消えてるよ」
「こんなに真っ暗だっけ?」
変なことを言ってるという顔をして美穂は踵きびすを返し戻る。紅あかく染まった理緒の顔を覗き込むと何かがおかしい。
「何も見えないんだけど。みほりん、ふざけてるの?」
「え?」
美穂はじっと理緒の目を見た。白目の領域が限りなく狭まっていき、眼球が完全に黒くなった。タールのような双そうぼう眸にヌラヌラと光が蠢うごめいている。夕日の色すら吸い込んで、その黒い目は、まるで底なしの闇だった。
「目、目が変だよ!」
「何? なになに!? 目がどうか......」
理緒が口を大きく開けたまま固まる。ゆらゆらと揺れて、美穂に向かってグラッと体を前傾させた。
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「たかっち、ふざけないでよ!」
そう言いながら美穂は飛び退ずさり、理緒がそのまま床に音を立ててぶつかり倒れると思った。
マネキンのように倒れていく理緒の膝から下が、カクカクと谷折り山折りに曲がる。折り紙のように曲がっていく足では支えきれなくなった体は、床にぶつかると同時に弾け飛んだように見えた。黒い粒子が黒板消しを叩いたときに出る白い粉のように辺りに飛散した。
さっきまで聞こえていた校庭からの音が何もかも遠ざかり、静けさが美穂の鼓膜を打つ。
「え? え? え?」
美穂は何が起こったか理解できないまま、理緒が倒れたはずの灰色の床を見つめる。
そこには人ひとがた形の影が床を焦がしていた。深淵へ続くような漆黒の穴だ。影のなかであぶくに似たぬらぬらしたものが蠢いている。
やがてそれは収まり、音も戻ってきた。
美穂は焦げた床を見つめ、驚愕の表情のままガクガクと膝を震わせ、ゆっくりと床にへたり込む。見開いた目を影からそらすこともできず身じろぎひとつできなくなった。
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第一章
六十五インチの巨大なテレビがさっきから流しているのは、夕方のワイドショーだ。男女が和わきあいあい気藹々と会話をしている様子が映しだされている。
感じのいいスーツを着ている女性のコメンテーターが、斜はす向かいに座るパリッとしたスーツ姿の男性に質問している。
男女ともに端正な顔をしているけれど、男のほうが際立っている。細い鼻びりょう梁と細い眉、歌舞伎の女役に見え、声音も柔らかく穏やかだ。
『コミュニケーション能力は人それぞれだと言われていますね。一人ひとり性格が違うんですからそれは当然です』
『釈しゃくさんは誰でもコミュニケーション能力は向上できると提唱されてますが、性格が違っていたら個別にアドバイスするのは難しいんじゃないですか?』
テレビは八畳敷の壇に置かれていて、壇にはテレビの他に低い座卓が置かれている。
テレビから数十センチしか離れていない所で、少年が食い入るようにテレビを見ている。座卓に肘をついて一緒にテレビを見ている少女は、少年の猫っ毛で茶色がかった後ろ頭に目をやる。
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ポニーテールを結っている少女の隣には黒髪短髪の青年があぐらをかいて座っている。一緒に茶を飲みながらテレビを眺めていた。
猫っ毛の少年はさっきから座卓についている少女から注意されている。
「晶あきら良ちゃん、テレビから離れて見ないと目が悪くなっちゃうよ」
それなのに、晶良は聞こえない様子でじっとテレビを見入っていて返事もしない。
「無駄だよ、陽ひなた向。晶良がテレビの虫だって知ってるだろ」
「アニキも少しは自分の雇い主の体の心配くらいしてあげたら」
「つーか、こいつ。さっきから何見てんだ? コミュニケーションなんたらとか、胡うさんくさ散臭い番組だな」
「あたし、このひと知ってる」
「釈しゃく卓たくや也ってやつ? なんで」
「学校で本が配られた。このあいだ講演会もあったよ」
「お前の中学、こんなやつ呼んで何してんだ?」
陽向の通う中学は都内にある中学だ。今も中学の制服を着替えず、兄である陽はると仁と一緒にお茶を飲んでくつろいでいる。
「道徳。感想文書けって言われた」
「面倒くさい学校だな......。おい、晶良、子供みたいにテレビばっか見てると頭が悪くなるぞ」
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ようやく晶良が振り返った。綺麗な顔をした少年だ。目が大きくて鼻筋が通っていて、ちょっと見だと少女にも見える。体も華きゃしゃ奢で、陽仁よりも随分細い。
高校生くらいにしか見えない晶良は、実年齢二十七歳のいい年をした男だ。陽仁はつねづねこの年齢詐欺男の若さが不思議でならない。
地味顔でしかも二十一歳の陽仁からすると、晶良はかなり見た目で得していると思っている。 その晶良が分厚い座布団にちょこんと正座してお行儀よくテレビの前に座り、
「頭が悪くなるなんてテレビに失礼ですよ」
眉根を寄せて陽仁を叱りつけると、またテレビに視線を戻した。
「晶良ちゃんは地じあたま頭がいいんだよ。アニキのほうがよっぽど馬鹿じゃん」
陽仁は自分の妹の頬をふにっと掴つかんで低い声で言う。
「誰が馬鹿だってぇ? いつからアニキにそんな口を利くようになった。お前をそんな子に育てた覚えなんかないぞ」
「可愛い妹に暴力を振るうな!」
後ろで喧嘩を始めた兄妹に、晶良がボソリと言った。
「この釈ってひと、不思議な感じですね」
陽仁と掴み合っていた陽向が手を休めて、晶良に答える。
「晶良ちゃんもそう思う? なんだかさぁ、変な魅力があるよね? 友達なんかファンになっ
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ちゃって、セミナーに行くって言ってた」
晶良が首を傾げる。
「魅力とは違うような......、テレビ越しからだとなんだか中身が空からなような気がするんですよね」
「中身が無いってことか?」
陽仁も手を止めて聞いた。
「空っぽです」
「コミュニケーションがなんたらって本、ベストセラーなんだろ? 中身が無いなんてことはないんじゃないか?」
もう一度晶良が首を傾げた。そしてやっぱりじっと釈を見つめ、テレビの世界に戻ってしまった。
陽仁は陽向から散々殴られた頭をなでつけながら、ぼやく。
「だいたいなんでお前がこんな番組見てんだよ。興味ないだろ、コミュニケーションとかいうの、お前ほど必要ないやついないじゃないか」
悩みがなさそうな笑顔を始終浮かべている晶良は、傍はたから見ていると人畜無害に見える。
陽向が茶請けに持ってきていたアーモンドチョコレートを口に放り込む。
「だって、このあとテレビショッピングがあるもん」
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それを聞いて陽仁の目の色が変わった。
「テレビショッピングだって!? 晶良! そのテレビ見るな、禁止禁止!」
座卓に置いてあるテレビのリモコンを電光石火で手にとって、スイッチを切った。
テレビの画面が真っ暗になって、その画面に悲しそうな顔をした晶良が映っている。
「ひどいです......」
陽仁兄妹が晶良のマンションに居候するようになって一年になる。一般常識がまったくない晶良の日々の生活をこの兄妹が支えていると言って過言ではない。と言っても晶良自身が財布なのだが。
しかも、目の前にいるのはテレビショッピングの番組が見られなくなったことにがっかりして肩を落としている、なんだか残念な美青年だ。
その晶良が正座したまま座布団を回転させて、座卓に向き直った。そしてにこやかに微笑む。
「とっておきのお茶とチョコレートを出してきます」
陽向の大きな目が輝く。十四歳の少女らしく両手を上げて喜んでいる。その様子は兄に似ずとても愛らしい。
「わーい」
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立ち上がって壇を下りた晶良がウキウキした様子でキッチンへ行く後ろ姿を見送った。
その姿を陽向がうっとりと見つめているのを陽仁は見逃さなかった。
「お前はなんであのひよこ頭が好きなんだ、よりにもよって」
「アニキ、うざい」
妹に一いっしゅう蹴されて陽仁は渋茶をすすりながら、亡くなった父母を思い返して心のなかで謝る。
(父さん、母さん、アニキとして面目ない。なんでだろうなぁ、どうして顔で選ぶんだ)
陽仁は果てしなく地味な目を細めて苦い思いを胸にしまった。
晶良が両手に銀トレイを持って戻ってきた。トレイにはイギリスの有名な陶器のカップ、高級チョコレートが惜しみなく盛られている皿が載っている。
「昨日デパートで買ってきたんです」
そう言いながら、カップを陽向と自分の前に置く。
「おい、俺の分は?」
「陽仁さんは渋茶のほうが好きじゃないですか」
さっきの返礼だろうか......。たしかに渋茶は好きだがと、陽仁は湯呑みの茶をすすった。
「いただきまーす!」
陽向が嬉しそうにそう言って、皿のトリュフを手に取ろうとしたとき、座卓に置いていた晶良の携帯電話が鳴った。
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その途端、彼が肩をビクッとさせて携帯電話をおそるおそる見やる。恐怖に顔が青ざめている。彼は電話が嫌いというよりもかけてくる相手が苦手なのだ。そっと手に取って表示画面を見ると明らかに安心したようにホッと息を吐いた。
「誰から?」
陽向が口をチョコレートで一杯にしながら訊ねる。
「翡翠姉さんでした」
携帯電話を耳に当てて話を始めた晶良をじっと陽仁は見つめる。
明るく姉と話をしているのは普通の光景だ。しかし、内容が問題なのだ。ただの世間話をしているならいい。姉弟らしくて微笑ましい姿である。
「はい、歌舞伎町ですね。住所は......はい。じゃあ、今夜」
そう言うとポチリとボタンを押して携帯電話の通話を切った。切ったあとになって晶良がハッとしたように言った。
「うっかりしてました......今夜はいつものドラマがある日じゃないですか」
あまりにも悲しそうな顔をしたから、思わず本当に泣くかと思った。
「大丈夫、晶良ちゃん。あたしがちゃんと録画しとくから」
陽向の気の利く言葉に彼の顔色があっという間に明るくなる。
「お願いしますね、陽向さん」
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「任せといて!」
かくいう晶良はドがつく機械音痴だ。
「陽仁さん、今夜は歌舞伎町で仕事です」
今日もきっと瑕かし疵物件の『清掃』の仕事だろう。
瑕疵物件と言っても、対象は精神的瑕疵物件。変死や殺人事件の現場になった貸し物件のことだ。他にも何の問題もないのに借り主がいつかない物件......。
そして、清掃とは浄化のことを差す。
一いちのみやあきら宮晶良の職業は拝み屋。
式しきがみ神を使って、精神的瑕疵物件の浄化をして生計を立てている。
一年前、諏すわはると訪陽仁は就職したばかりの不動産会社の社長から晶良を紹介された上、何がなんだかわからないうちに彼のマネージャーにされてしまった。
それからと言うもの今までは夢物語、ファンタジー、テレビのなかの作り物と思っていた世界を目の当たりにする毎日だ。
「わかった、歌舞伎町ね」
陽仁は歌舞伎町に行くまでの路程を考えながら返事をした。
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昼間は蒸し暑くても、昼間と違って日が沈むと少し涼しい風が吹く。しかし、その風も人の発する熱気ですぐに温まってしまう。
昼間の喧騒とは違う様相の歌舞伎町は、今日もゴミゴミとしていて酔った客と客引きの男女でごった返している。
綺麗な顔をしている晶良なんか、スカウトの男に声をかけられやすいと思いきや、彼はスイスイと人混みを縫って目的地である貸ビルへ向かっていく。
晶良の服装はいつものようにラフなコットンのシャツにチノパンツ。腰に革製のコンパクトなウェストバッグ。そのなかには仕事に必要な様々な道具が入っている。
暑さに負けた陽仁は半袖のポロシャツにジーパン姿だ。道具も何も持っていない代わりに袈けさが裟懸けにできるバッグを肩から引っ掛けている。
気温の暑さとは違う不快な熱に揉まれて陽仁はポロシャツの前襟からパタパタと風を送った。その間もしつこく客引きされ、それを無視して歩くのも大変だ。しかもさっさと晶良は先に行ってしまうし、少しくらいは待っていてほしい。
歌舞伎町は入りくんでいて、ちょっとでもJRの出口を聞き間違えただけで全く違う場所に出てしまう。陽仁が晶良から聞いたのは東口。大画面のある、街をよく知っているものからしたら馴染み深い方面だ。
そこからさらに入り組んだ道を歩いていくことになる。歌舞伎町の雑居ビルや貸ビルはお得
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意様だったりする。だから、住所を聞いたら大体の位置が飲み込める。
歌舞伎町は喧騒の激しい場所から離れると、反対に今度は高級クラブが並ぶ場所に出る。マンション並みのビルにワンフロアまるまる借りている高級クラブとなると、貸す側の収入も多い。それなのに入れ替わりの激しいと、なかなか次の借り主が現れず、貸テナントのオーナーは結構閉口するのだ。
それも借りる側が出ていくことを知らせないまま放置ということもあり、月々の振込がないことで初めてオーナーはテナントの借り主が逃げてしまったことを知るのだ。
しかもそれが何度も続くと貸主のオーナーも験げんを担いでなんとかしようとする。神主や坊主を呼んでみたり、風水で商売繁盛を願ったり。
幽霊が出たとか人殺しがあったとかそんな物騒なことなど一切ないのに何度もそういう目に遭うとオカルトなことに走りがちだ。
今日受けた依頼は一宮に直接、伝つて手を辿って来たものだ。一宮は特殊な異能力集団の一族で、滅多なことでは依頼に漕こぎつくことすらできない。それでもなかには運良く一宮一族と繋がりを持つことができる。
今回もそんな依頼なんだろうと思った。晶良の後ろ姿を探しながら陽仁は考える。
「それにしても暑い......」
空はネオンに照り返って紫色に染まっている。曇っているのか晴れているのかもわからない
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くらい明るく、星も見えない。高いビル群に空が狭まり月も隠れていると、本当にここが現実の世界なのかと疑わしくなってくる。
坂道を登り始めると人通りがめっきりと減る。二車線の通りの両脇にはお高いマンションの様相を呈ていした高級クラブ――いわゆる会員制のキャバレーが入っているビルが並ぶ。
陽仁はやっと見えてきた晶良に駆け寄った。
「ここらへんじゃないか?」
「そうですね」
家にいたときとは違う落ち着いた声が返ってくる。
彼が仕事モードに入った兆候だ。
坂を上りきった所に、背広姿のいかつい体つきをした初老の男が立っている。所在なげに時計を見ながら苛々と佇たたずんでいるところを見ると、誰かと待ち合わせをしているようだ。
その姿を見とめるとすたすたと晶良が向かっていった。慌ててその後ろを追いかける。
「おい、違ってたらどうすんだ」
そんな抑止の声も無視して、彼が自分より背が高い男に声をかける。
「お待たせしました」
あまりにもさりげなく、しかも少年に声をかけられたと思った鳥羽が訝いぶかししげに晶良を見下ろした。
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「なんだ、お前は。夜遊びしたいならほかへ行け」
そっけなく言うと時計を見る。陽仁が晶良の代わりに依頼主の鳥羽に話しかける。
「すみません、依頼主の鳥羽さんですよね?」
すると、不機嫌だった鳥羽の顔色が変わった。自分より背が高い陽仁をざっと上から下まで見たあと、その姿のラフさに驚いたような顔をする。
「あんたが一宮さんか」
「いや、俺は諏訪陽仁です。こっちが一宮晶良。俺は彼のマネージャーです」
そこまで聞いて、やっと鳥羽は状況が飲み込めたようだ。
「あ、あぁ......あんたが一宮さんだったのか......。てっきり」
見た目のことを言いかけた鳥羽を晶良は無視した。
「それで例の場所は?」
「本当にあんたで大丈夫なのか。あのフロアは半年で三回借り主が失踪したんだぞ。神主からも坊主からも霊能力者からも見放されたんだ」
鳥羽は何度も繰り返しながら、エントランスに入る。
「心配はいりません。晶良は一宮一族でダントツの力を持ってるんですから」
陽仁の言葉に鳥羽が眉を顰ひそめる。説明しても信じられないようだ。
「いいんですよ、陽仁さん。現場を見たらわかりますから」
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晶良が静かに口を開いた。
怒っているわけじゃない。ただビルの様子を窺っているだけだ。
ビルのエントランスにはライオンの首がでんと据えられている。ライオンの首だ。豪華さを表現し損なったような大理石でできたライオンの口から水を吐き出している。その水が真下にある池のような四角い水槽に落ちていく。水槽にはやや元気のない睡蓮が咲いていた。
エントランスに入ると、それまで煌こうこう々とフロアを照らしていた照明がチカチカと明滅し始めた。
「また電球が切れたのか。あれだけ替えろと、言っておいたのに」
忌いまいま々しげに鳥羽が呟つぶやいた。それを聞いて晶良が訊ねる。
「いつくらいから電球が切れやすくなったんですか?」
「なんか関係があるのか?」
彼が足を止めて照明をじっと見つめている。
「暗いから」
「そりゃ暗いだろう、チカチカしてるんだからな」
鳥羽が苛々したように言った。
二人のやり取りを陽仁は背後から眺めていた。晶良の目が空中をさまよい、焦点が電球に合っていない。多分電球のことを言ってるんじゃない。
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別の何かのことを言っているのだ。
鳥羽にはもちろんそんなことはわからない。陽仁はこの一年の間に色々な経験をしたおかげで、晶良が何か眼には見えない物を見ている時の様子が区別できるようになっていた。
それでも彼に近づかないと自分も彼が何を見ているかわからない。そっと晶良のすぐ背後に立って、照明を見上げた。
何か黒い影が蠢いている。
「あれ、なんだ?」
思わず口走ると晶良が振り返る。
「少し見えますか? じゃあ、はっきり見せてあげましょう」
彼の一言で空気が変わった。
ズシンと空気が重たくなり、肩にのしかかってきた。
「うわ」
鳥羽も異変に気付いたようで変な声を上げた。
「照明を見てください」
彼の言葉に従ってもう一度見上げる。
そこには、真っ黒い泥のようなものがへばりついて、電球の上を行ったり来たりしていた。その黒いものは一つだけでなく、まるで無数の蛆うじのように天井を這っている。
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「うわぁ......!」
鳥羽が驚いて声を上げた。
「あれくらいだったら平気ですよ」
彼の飄ひょうひょう々とした言い方に、鳥羽がどこか怒りの混じった声音で聞き返した。
「あれが原因なのか、あんた早くどうにかしてくれ」
「原因じゃないでしょうけど、関係はあります」
「一体、あの気持ちの悪いものはなんなんだ」
鳥羽の言葉に、晶良が静かに返した。
「泥でいそ蛆ですよ」
天井の黒い蛆を凝視したまま、鳥羽が口走る。
「でいそ......? なんだそりゃ......」
天井から目をそらして、晶良が指で弾たんじ指を鳴らした。あぶくが弾けるように、指を鳴らすごとに泥でいそ蛆が消えた。
「さぁ、問題のフロアに案内してください」
「お......は、はい」
目の前で異様なものを消してみせた晶良への、鳥羽の態度が変わる。
「こちらです」
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エレベーターに案内されて、四階のボタンを押す。
エレベーターのなかも暗い。明滅してないにしろ、空気はさらに重たくなっていく。まるで地球の重力が一気にのしかかってきたようで押し潰されそうだ。
肩に砂袋を置かれたみたいな感じで背中が曲がる。しかも段々と異臭が漂ってきた。生ゴミの匂いだ。
「また掃除サボりやがって......」
鳥羽がグチグチ言っている。
多分、生ゴミではない......。陽仁は今までの経験からそう思った。
魚の饐すえた血の匂い、海の潮臭さが混じる、腐った臭い。キッチンの生ゴミを魚の骨と一緒に放置したときの悪臭だ。
そして、クーラーが効きすぎたような冷たさも感じる。七月に入ったばかりで、外は蒸し暑さに汗をかくほどだ。風がいくらか涼しいとは言え、建物のなかにまでは吹き込んでこないし、ましてやエレベーターなど論外だ。
(例の寒さだ)
陽仁は、これは瑕疵物件の清掃に行くと毎回感じる寒気だと察した。
冷凍庫に突っ込まれたような、極寒の地に薄着で放り出されたような、息が白くなる寒さがエレベーターに満ちている。
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現に三人とも息が白い。鳥羽が不思議そうにエレベーターの通風口を見ているが、原因はそこじゃない。
問題の四階に近づいているからだ。
ポンという軽い電子音とともにエレベーターの扉が開く。
扉の外は真っ暗だった。それまで軽かった悪臭が、一気に鼻びこう孔を直撃する。
「臭いッ」
咳き込みながら鳥羽が急いでフロアの電源を探しに行った。けれどやがて急いで戻ってきて言った。
「電源がつかないが、大丈夫ですか」
鳥羽の言葉に晶良が首を傾げる。
陽仁はすかさず晶良に声を開けた。
「ろうそくならあるけど」
「いいえ、これくらいなら青せいらん嵐がなんとかします」
「青嵐? ライトの名前か何かですか」
鳥羽が不思議そうに言った。
その受け答えがおかしく陽仁は口元を緩めた。
「青嵐」
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晶良が宙ちゅうに呼びかけると、どこからともなく女の声が返ってきた。
「あい、主ぬしさま」
「明かりを」
晶良の言葉とともにポウッと青白い光が灯る。燐光を発する女の姿が浮かび上がる。
滝のように長い艶つややかな黒髪に抜けるように色が白く、目元に朱しゅをさした十じゅうにひとえ二単の女だ。しかも宙に浮いている。
「う、うわぁ......! ゆ、幽霊!?」
鳥羽が驚いて後あとずさ退った。
「式神ですよ。僕の使役です」
ニッコリと晶良が微笑んだ。
陽仁は灯し火に浮かぶ青嵐を見やる。彼女は白狐の青嵐。神狐から妖狐になりかけたところを晶良に救われた。それ以来、晶良が死ぬまで仕え、再び神狐になるつもりでいるのだ。
顔は小造りで鼻がツンと上を向いていて、ふっくらとした頬につぶらな瞳、柔らかそうな唇を見ると普通の女性に見える。けれどその頭からは白い大きな耳がピンと立っていて、彼女が人間でないことがわかる。外見も少女に見えたり妙齢の女性に見えたりと様々だ。
灯し火が宙高く浮き上がり、同時に今まで見えなかったものが見えた。
エレベーターを出るとすぐフロアが広がっていて、青白い光が床と天井を照らしている。
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椅子や机はなく、だだっ広いフロアには赤いカーペットが敷かれているだけだ。そのカーペットと天井と壁に、jc2泥でいそ蛆が伸び縮みしながら蠢いている。うぞうぞと動くさまは動きの鈍いゴキブリに似ている。
晶良はフロアの広さを目で図ると、腰のバッグから紙を取り出して指に挟む。その紙はときによってただの四角い紙だったり生き物の形だったりする。
今日はどうやら御札のような紙にしたようだ。紙には朱墨で複雑で判読できない模様が描かれている。
それを晶良がピッと放り投げた。ただの紙がまるで手裏剣のように鋭く空を切って壁にピタッと張り付く。
その途端に今までノロノロと蠢いていた泥でいそ蛆が、まるで伸び切ったゴムを掴む手を失ったように勢い良く粘り気を見せながら奥へ消えた。
また一枚一枚、同じように晶良が紙を飛ばす。天井と左右の壁へ紙が張り付く。そのたびに泥でいそ蛆が物凄い勢いで逃げていく。
「おふたりともそこから動かないように」
いつものセリフを晶良が吐く。彼は一人で清掃を済ませる。その際に邪魔が入らないように能力のない人間に動かないように命じるのだ。
陽仁はいつもそれを聞くたびに、自分にもできることがあるんじゃないかと思ってしまう。
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けれど、晶良は陽仁には何もさせてくれず、一言「危ない」と言うだけだ。毎回それを歯がゆく感じてしまう。
晶良が両手の指を組み合わせながら、前に進む。ズーンという重たい音が響く。術法を使うとき彼が歩くたびにその音が響くけれど、その音のもとを教えてもらえたためしがない。
そうなってくると彼の様子は神がかってくる。華奢な背中がいつもの倍に見える。背丈も倍に伸びて部屋中に彼の気配で満ちる。いつも後ろ姿だけしか見えないので彼の顔を拝んだことはないが、きっとどこか人間離れした顔つきなっているんじゃないか。
陽仁は無意識に鳥羽が飛び出したりしないように、体でかばっていた。
「泥でいそ蛆は小物ですが、能力のない人間にとっては害のある存在です。取り憑かれれば悪心と生気を吸い取られて死に至ります」
いつか晶良が言っていた。「だから陽仁さんは後ろにいてもらいます」今でもその言葉は自分には苦々し区感じられる。だったらなぜ自分は晶良の相棒なのだろうか。
――運さだめ命じゃ
頭のなかで女の声が響いた。ふと見ると青嵐が冷たい視線を自分に注いでいる。
「運命だって?」
思わず声を出してしまう。
――主さまにとってそなたは必要不可欠な役割を担っておるだけじゃ
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(なんだって俺なんだ......)
「誰と話してるんですか」
鳥羽が青い顔をして陽仁に聞いた。
(ああ、青嵐の声は俺にしか聞こえてないのか)
――愚か者。主さまの手足となって守るのがそなたの役割じゃ
(手足かよ!)
陽仁は苦笑いを浮かべる。
あれは一年前、依頼を受けて晶良と岡山の孤島へ行き、化け物と戦った。そのときに散々自分は晶良のために奔走したじゃないか。
青嵐はつんとそっぽを向いて、晶良の背後に回った。
その間も晶良は禹うほ歩というゆっくりとした足取りで奥へと歩いていく。結婚式に新婦が歩く歩き方に似ている。とろとろしていて、見ているとイラッとするが、それにも意味があるらしく、泥でいそ蛆が出た部屋ではいつもこれを始める。
そうやって晶良が自分の結界を張っているのだそうだ。
今回の結界はすでに三方の札で結界の一部は出来上がり、後は床だけだった。
追い詰められた泥でいそ蛆が煮詰められた漆黒の泥のように、ボコボコとあぶくを湧かせドロドロと天井から床に落ちては天井へと戻っていく。
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さながら爆発寸前の闇だ。
晶良が、胸元で何度も手しゅいん印を組んで、鋭く言い放つ。
「オン ビシビシ カラカラ シバリ ソワカ!」
その瞬間、眼に見えないガラスが音を立ててながら割れて崩れ落ちていく音がした。
「な、何の音だ!? このフロア、窓はないぞ?」
鳥羽が上ずった声で口走った。
返事をせずに集中している晶良は、多分、術法で手一杯のはずだ。
だから陽仁が代わりに答える。
「鳥羽さん、晶良が泥でいそ蛆の結界を破ったんです。その音です」
「け、けっかい?」
陽仁は苦笑する。そう言えば一年前も自分も鳥羽と同じ反応をした。
「化物は自分が存在するための結界というか縄張りを作るんだそうです。その縄張りを破ると、化物は身動きが取れなくなるって寸法です」
あのときと比べてかなり晶良のすることを不思議だと思わなくなった。
「とにかく大丈夫です」
結界が破れたということはすぐに泥でいそ蛆は一掃されるだろう。
見ると、ドロドロと天井から垂れていた泥でいそ蛆がガッチリと固まり、まるで墨色の鍾乳洞だ。
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心なしか空気も軽くなり、悪臭も霧散した。もちろん寒気もしなくなった。だが、それで安心はできない。当の泥でいそ蛆は固まっているとは言え、壁と天井を闇に染めて存在しているのだ。
多分これで最後だ。不動明王の呪文で泥でいそ蛆も一巻の終わりだろう。
案の定、晶良が続けて唱える。
「ノウマク サラド ビギンナン ウンタラタ カンマン!」
轟音とともに真っ赤な炎が突然空中に生じて、固まった泥でいそ蛆を呑み込んだ。
「あ、火は!」
慌てたように鳥羽が叫んだと同時に、
パチッ
と音を立てて照明がついた。
鳥羽が口をポカーンと開けたまま、フロアを眺める。
そこには何もなかった。今まで青白い光にさらされていた黒い塊も何もかも消え失せている。
一人、背中を向けた晶良が佇んでいるだけだった。
くるりと晶良が振り向いた。綺麗な顔を微笑ませて告げる。
「終わりましたよ。でも少し気になることがあるので少し待っててください」
陽仁と晶良はフロアの奥、泥でいそ蛆を追い込んだ壁を近づいていった。何の変哲もない、綺麗にクリーニングしてある壁に、黒い焦げ跡が残っている。
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「これ、黄泉の穴か?」
陽仁が訊ねた。泥でいそ蛆は屍しびと人や死霊が開けた穴を大きく食い破って、黄泉へ続く穴を作る。それは底なしの奈落のような穴だ。
しかし、晶良が意外なことを口にした。
「いいえ、これ......一年くらい前、あのテナントを清掃した時に見た焦げ跡に似てませんか?」
陽仁はそう言われて一年ほど前、マネージャーになったばかりの何度目かの仕事を思い出した。そこでも泥でいそ蛆が大量発生していたのに、黄泉の穴もなければ死霊もいなかった。その代わりに、目の前にある人ひとがた形の焦げ跡が残っていたのだ。
それは焼身自殺した人間の炎で縮こまったような形跡はなく、壁に凭もたれかかるようにして壁と床についている。
「まるで人が座ってたみたいですね」
「でも、問題はないんだろ?」
「ええ、結界は閉じましたから、もう泥でいそ蛆が湧くことはないです。ただ、この焦げ跡をどうやったら消せるかわからないです......」
後ろから近づいてきた鳥羽が困惑したように口走る。
「それは困る。こんなものがあったら人に貸せないじゃないか。どうにかしてください」
鳥羽がいかつい体を面白いくらいに小さくして頭を下げた。
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晶良が首を傾げた。少し考えたあと、優しい声音をかける。
「家具を置いたらどうですか? お酒を入れるためのミニカウンターとか」
誰でも言いそうな当たり前の提案に、鳥羽は一瞬ぽかんとした。しかし、すぐに底意地の悪い顔をする。
「どうしても消せないなら、料金は払わん」
「それは......」
陽仁が反論しようとしたら、晶良が止めた。
「清掃代を払わないのは自由ですけど、僕の仕事はアフターケア込みなんです。もしこのフロアで何かが起こったら、僕はずっとフォローすることにしてます。でも清掃代を払わないんでしたら、この後、何があっても僕は知りませんし、一宮も関与しませんよ」
珍しく晶良がきっぱりと言いのけた。
鳥羽はしばらく悩んでいるようだったが、アフターケアなし、一宮に何かあっても二度と頼めなくなると聞いて、焦げ跡の始末とそれらを天秤にかけたようだ。
諦めたようにというより悔しそうだ。
「わかりました。家具を置きますよ」
要するに家具のほうが今回払う金額より安いと算段したんだろう。なぜ金持ちほどこんなに吝りんしょくか嗇家のが多いんだろうかと、陽仁は呆れた。
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結局二人はビルを後にした。
「で。あの、焦げ跡ってなんなんだ?」
「僕もこれで二度目ですから正直わかりません。普通なら泥でいそ蛆が湧くときは、死霊が開けた穴から出てきてるはずですけど......」
たいがいのことなら知っていると思っていただけに肩透かしを食らった。
「お前でも知らないことってあるんだな」
生ぬるい風が吹き抜ける。陽仁たちは歩いて新宿駅に向かっていった。大抵の依頼主はタクシーで送ってくれるものだが、鳥羽はそれもしたくなかったようだ。別の意味で因果が業を呼びそうなケチだ。
「仕方ないですよ。こういう仕事を信じるか信じないかで、その人にとっての代価は変わりますから。たしかにこの仕事は人の目に見えないものを清掃するから、簡単には信じられないでしょうし。それに今回はちゃんと問題を解決してないですもん」
少し憤っていた陽仁は晶良の悟りきったような言葉に納得せざるをえなかった。
「まぁ、たしかに今回は綺麗に終わらなかったけど......、前に同じことが起きたテナントのオーナーはあんな態度じゃなかったぜ?」
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「だから人それぞれですよ。あー、お腹すきましたね。早く帰ってビデオ見ないと」
晶良は背伸びをした。
すぐに疲れてエネルギー補給したがる晶良のために、どこかで食べてから帰ろうという話になり、二人で喫茶店に入った。
今日は軽い掃除だったから、晶良もそれほど体力を消耗していないようで、甘ったるいチョコレートパフェを幸せそうに食べている。
「ほんと、お前、甘いもの好きなんだな」
晶良がアイスクリームを頬張りながら答える。
「だって簡単にカロリー補充できますから」
絶対に甘党なだけだ......と、陽仁はコーヒーを飲みながら思う。
「でも、今日はあれだけ泥でいそ蛆が出て、屍しき鬼みたいな大物はいなかったな」
「屍しき鬼が現れたら硫黄の臭いがしますから、すぐにわかりますよ」
陽仁は記憶を辿って、以前、晶良がそう言っていたのを思い出す。
「今日は生ゴミ臭かったもんな」
「僕は朱しゅこう鸛のお陰でそこまで臭わないですけどね」
「なんだって」
陽仁は身を乗り出す。
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晶良は自分の脆弱な体を守るために体に朱しゅこう鸛という式神を融合させている。そうすることで、すぐぶっ倒れる体を維持できてるのだ。
「そんな便利なことを、お前だけが満喫してるのか」
「満喫じゃないですよ」
怒ったように晶良が眉を顰ひそめる。
「好きでこうしてるわけじゃないんです。そうしないと、僕は生きてるだけで死んじゃいますから」
そうなのだ。晶良は自分に顕現した異能力のあまりの強さに体が保もたない。生きているだけで周りに自分の生命エネルギーを分け与えてしまう気の毒な力を持っている。
それで幼いころはずいぶん苦労したらしい。
「そのお陰で観かんそうねん想念だけは人一倍鍛錬できましたけどね」
観想念とは瞑想のことだ。晶良は寝込みがちの幼いころに寝ながらできるその観想念を極めて、実は術法を使わなくても呪じゅごん言や神仏召喚も具象化することができるのだ。
だから、道具は本来いらない。道具を使ったら体力を消耗しないからと言うだけだ。
と言いつつも、晶良は日頃から大量にエネルギーを蓄えておく必要がある。それは晶良のためというより朱しゅこう鸛のためだ。朱しゅこう鸛は晶良が幼いころ、聖地に坐ましました磐いわくら座が神仏に昇華する前に雷によって、無理矢理、放り出された神霊なのだが、青嵐と同じように祟り神となりかけたと
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ころを晶良に助けられて、磐座の代わりとして晶良に融合して神仏として改めて昇華するまで、晶良を守護している。
(と言うかこいつ助けてばっかりだな......)
晶良の姉、翡翠によると式神は古く存在しているものを、何日もかけて服従するように契約するもので、ましてや神霊を式神にすることなどありえないのだ。しかも晶良にとって、青嵐や朱しゅこう鸛は友人でもあるのだ。
おそらく、病気がちだった幼い自分と遊んでくれる存在がこの二柱の神霊だったせいかもしれない。
今の晶良からは全く想像もできない。
「でも屍しき鬼だったら、今日みたいに泥蛆のようにはいきませんよ」
「だからいい加減俺にもなんか術法教えろよ」
陽仁はこの一年繰り返してきたやり取りをぶり返した。
「鍛錬もしていない陽仁さんには無理です。死なれたくありません」
「ぐっ」
そういうふうに言われるとこっちも強く言えなくなる......。
晶良は心から、陽仁に危険な目に遭ってほしくないのだ......例えば凶暴な屍しき鬼に遭遇してほしくないのだ。
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そう、晶良はただの拝み屋とは違う。彼は屍しきはらいし鬼祓師、黄よみ泉の屍しき鬼を祓う祓ふつまし屍師なのだ。
と言っても、陽仁は彼が屍しき鬼を祓っているのを見たのは二度。
一度目は初めて出会った時、瑕疵物件の部屋で。二度目は岡山の孤島で。
屍しき鬼は想像できないほど大きく凶暴な人食いの鬼だ。その屍しき鬼を晶良はたったひとりで式神と術法を駆使して滅することができる。
一族のなかでも一際力を持つ彼の姉たちですら、数人がかりで屍しき鬼を捕縛して黄泉に還すことしかできない。
だからといって彼らの力が軟弱なわけではない。晶良のように強い力を持っていないというだけで、様々な特化した異能力を持っている。
そのなかには普通の人間に特殊な能力を与えることができる異能力だってあるかもしれないと、陽仁は食い下がってみた。
「お前の姉さんたちで、ぱぱっとどうにかすることできないのか?」
すると晶良が少し青ざめた。
「いることはいますけど、僕は気乗りしません」
「いるのか? 瑠るり璃さんか? 柘ざくろ榴さん? それともまさか翡ひすい翠さんとか」
「全員違います......」
「え? でもお前の姉さん三人じゃなかったっけ?」
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不思議に思って聞くと、晶良が言いにくそうに口を開いた。
「奥州に瑪めのう瑙姉さんがいます......」
「もう一人いたのか」
初めて聞く名前に驚くと、晶良が説明する。
「瑪瑙姉さんは人嫌いで山奥に一人で暮らしてるんです。普段の仕事は人形師で、糸や布地とか、あと和紙も作ります」
陽仁はへぇと感嘆する。
「今で言うとナチュラリストみたいなものか? 田舎暮らしとか」
「うーん......ナチュラリストというより、ちょっと変わってる人なんです。でも、この服の布とか僕や姉さんたちの呪じゅふ符の紙を作ってるのは瑪瑙姉さんなんですよ」
「それでいっつも地味な色の服なんだ」
「でもこれ、結構魔除けになるんです。僕、無意識に魔を滅してるから、普段は魔が側に寄ってこないほうがいいんです」
「あ、そうだったな......」
晶良の生命エネルギーはそのものが魔を滅することもできる。もし、周囲に魔の気配が濃くなると勝手にその力が発動して、力を失ってしまうという困り物の体なのだ。
「瑪瑙姉さん特製の布地です。柘榴姉さんなんかサイコメトラーなので、服とか市販のものが
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着られないんです。だからいつも瑪瑙姉さんが作った服を着てるんです」
柘榴は警視庁特別別捜査室の零れいか課に所属する、表向き刑事なのだ。実際は通常の捜査では解決しない事件を担当している、警視庁の裏の支配者でもある......。とにかく鬼軍曹のような怖い女性だ。電話が鳴るたびに晶良がビビり上がっていたのは、この柘榴からの電話じゃないかと思うからだ。
「瑪瑙姉さんは柘榴姉さんより怖いです......。だから頼み事なんかしたら、何を恩に着せられるか......」
晶良が遠い目をした。
「この服を作ってもらうためだけに、僕は瑪瑙姉さんにたまに会いに行かなくちゃいけないんですから」
「いいじゃないか。実の姉だろう? それとも仲が悪いのか?」
「いえ、仲が悪いんじゃないです」
慌てて晶良が手を振った。
「言葉では言いづらいです。瑪瑙姉さんは一種の天才というか人間離れした人だから......」
陽仁は「そうか......」とだけ言っておとなしくコーヒーを飲み干した。
晶良より人間離れしていて一種の天才と聞くと俄がぜん然興味が湧いてくるが、晶良の様子を見ていると聞きづらくなってしまった。
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もし、晶良が瑪瑙さんのところに行くことになったらついていこうと決めた。
晶良の超ステータスの高いマンションの屋上にある、ペントハウスに戻ってきたのは夜の十時を過ぎていた。
晶良がドラマを見てから寝るとごねたので、先に風呂に入ってもらってビデオを再生した。陽仁は寝る準備をした後、翡翠に仕事の報告をして、今日一日の仕事は終わる。
だから、翡翠から現場に焦げ跡が残されている例が他にもあると聞いたとき、心底驚いてしまった。
『その報告、他の一族の者から聞いてるし、柘榴姉さんからも報告されてるわ』
「晶良だけじゃなかったんですね」
『みんな見過ごしがちだけど。最初に気付いたのは柘榴姉さんなの』
「柘榴さんが?」
俺は問い返した。
『ええ、姉さん、仕事で不審な失踪届の出てる事件の調査をしたら、その現場に必ず焦げ跡があったの』
「じゃあ、なんで、晶良に報告が行かなかったんですか?」
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『それが......ただの焦げ跡だったからなの。泥でいそ蛆の気配も黄泉の穴の気配も何もなかったのよ。だから調査をそれ以上できなかったっていうのが真相なの』
「じゃあ......」
『そうね......』
翡翠が電話越しにため息をついた。
『今はこれ以上できることはないわ』
電話を切ってリビングに戻ると、リビングの大きなガラスを見て晶良が震えていた。
「どうしたんだ?」
晶良が珍しく取り乱している。
「め、め、瑪瑙姉さんが......」
陽仁は晶良がこんなに動揺しているのを不思議に思ってガラスの方を見やった。何かの手形がベタベタついている。一体誰がこんないたずらしたんだろう、と近寄っていって擦ってみると外側からついたようだ。
(明日の掃除大変じゃないか)
ぶつくさ言いながら壇に上がると、晶良が震える声で告げた。
「明日、迎えに来るそうです」
「迎え?」
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「そう、迎えです」
陽仁の頭のなかで、軍用ヘリで晶良のペントハウスに乗り込んでくる柘榴の姿が思い浮かんだ。
「ヘリで?」
晶良が首をブンブン振る。
「明日の朝、四時半のかはたれ時に来るそうです......」
深いため息を晶良がついた。
俺は明日の朝、一体何が起こるか予想もしないで呑気に晶良に話しかけた。
「奥州か、初めて行くな。弁当作ったほうがいいかな。しっかし、朝の四時半か、早いな」
落ち込んだ声で晶良が呟く。
「お弁当なんかで姉さんは喜びませんよ。陽仁さんは覚悟しておいてくださいね」
陽仁はキョトンとする。
「覚悟ってなんでだ? それより、陽向に言わないとな。勉強で起きてるかな」
陽仁が出ていく間際、晶良は小さくため息をついた。
「あぁ......すごくいやだなぁ......」
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第二章
夜中の三時に起きて寝不足の目を擦りつつ、陽仁は台所に立った。揚げ物を作り、ニボシでごまめを作り細かく刻んでおにぎり混ぜ込む。鮭もほぐして同じくおにぎりに投入。薄く塩で味付けた茹で野菜にソーセージの細切りを炒めて野菜と和える。レンコンにとろろ芋を混ぜ込んだ鶏肉の挟み焼きを作り、弁当箱三つに詰め込んでいく。弁当箱はとりあえず曲げわっぱ弁当箱にしてみる。これは自然に優しくごみ捨て出来る。
所要時間約四十分。手早さはベテラン主婦並である。それもそのはず、彼は中学生のころから家族のために料理をしている。
ついでなので、陽向の朝ごはんを作っておいてやる。
「俺はなんて優しい兄なんだ......」
陽仁は自分で自分を褒めながら頷き、晶良を起こしにいった。
いつもならギリギリまで起きない晶良が珍しく電気もつけず、畳敷きの上に正座して、じっとガラス窓を見つめている。わずかにまだ灯ともっている外の明かりが差し込んできて、部屋のなかは暗い紺色に沈んでいる。
「おい、早いな」
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「電気つけようか」
「いいえ、このままで」
晶良の猫っ毛には寝癖が残っていて、顔洗うのもそこそこに準備をしたようだ。
「朝ごはんできてるぞ、食うか?」
晶良がやっと陽仁の方を向いた。
「おはようございます」
いつもならご飯と聞くと笑顔になる晶良が、見るからに意気消沈している。
「どうした? 元気ないな」
「もうすぐ四時ですね......。ご飯を食べてる暇なんてないかもしれないです」
陽仁は弁当をリュックに詰め込む。
「迎えは四時半なんだろ? お前ならものの十分で飯五合は食うじゃないか」
晶良がはぁっとため息をついた。
「多分迎えに来るものに時間なんて関係ないんです」
「......早めに来るってことか?」
「まぁ、そうですね」
腑に落ちなくて、陽仁は晶良に靴を履いて待ってたらどうか勧めてみた。
「靴......そう言えばそうですね。靴を履いてれば、少しいいかも」
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というわけで、いつも履くオックスフォード型の靴を持ってきてやる。
「山道なんで、陽仁さんが履いてるスニーカーのがいいです」
珍しく、晶良が靴に注文を出した。履くものも着るものにも無頓着なくせに珍しい。
「靴、履いてたほうがいいですよ。荷物も」
気付けば晶良はさっさとウェストバッグを腰から下げている。
靴の裏は綺麗に洗ってあるので、座敷に持ち込んで履いていても問題ないが......と思いつつ、陽仁は靴を持ってきて履き直した。
そろそろ四時になる。部屋は相変わらず電気をつけずに暗い。
陽仁も所在なげに晶良の隣にあぐらをかいて、窓の外を眺めた。
いつもなら、すぐにテレビをつけて朝のワイドショーを見るようなやつが、物音立てずに固唾を呑んで窓を見ているのは不思議だ。
リビングの前面部分、左側が巨大なガラスになっている。まるで水族館で見るような巨大アクリル水槽だ。ただしガラスの向こう側はヘリポートのあるプール付きの庭なのだが。
一度、晶良が柘榴の応答に遅れたときに、ガラスを銃で撃って叩き割り、なかに入ってきて以来、晶良は彼女が来ると言った時間にはちゃんと待機しているし、しかもガラスを上下スライド式に改造したくらいだ。
話だけ聞いていると、「あるわけないだろ」と晶良の胸をパシンと突っ込みたくなる。
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間もなく四時になる。徐々に空が烏からすば羽色から紺色に変わり始めたころ。
突然、空気が変わった。
なんというか、ドヨンとして急に湿気が増えたような感じだ。霧雨に降られて、細かな水滴が肌に当たる触感。蒸し暑くてじっとりと汗ばんできたときの感覚。
陽仁は気持ち悪くてしきりに肌を擦るが、なぜか皮膚はさらりとして不快感を覚えること自体不思議で仕方ない。
ほのかに、水の匂いが漂う。淀んだ池や沼の臭いではない。澄んだ清水の香りだ。滝の側に立ったような清々しさと水っぽい空気に違和感を覚えて、陽仁は隣に座る晶良を見やった。
晶良が口を引き結んで、真面目な目つきでじっと前方を向いたまま微動だにしない。それに倣ならって陽仁も前方を見据える。
ぼんやりととした紺色の視界にぽつんと明かりが灯った。最初はそれが街の明かりだと思った。けれど、それは段々と大きくなり近づいてきていると悟った。
その明かりが提ちょうちん灯のようなものから発せられていると気付いたとき、晶良が口を開いた。
「来ました」
そう言って立ち上がって、壇から下りた。陽仁も慌てて壇から降りる。
壇から下りて、陽仁は驚愕する。足元が濡れていてぬちゃっと泥を踏んだように感じたのだ。晶良がピチャピチャと音を立ててガラスに向かって歩いて行く。
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目の前に灯っている提灯が、部屋に入ってきた。
微かに川の流れる音がする。さやさやという音は、晶良の足元から聞こえる。
提灯を持っている人物は見えない。薄っすらと人影は浮かんでいるが、顔や姿までは見通すことができなかった。
紺色のほの暗い影が言葉を発した。
「晶良殿、お迎えにあがりました」
提灯のは男だった。静かで低い声だ。声だけ聞いていると晶良と同じ年くらいに思える。
「陽仁さん、川を渡って」
晶良が振り向いて声をかけてきた。
陽仁は、(川?)と疑問を抱きながら、晶良に向かって進んだ。
ふいに足元がひんやりし、靴底がピチャっと音を立てた。立ち止まりそうになるとそのたびに晶良から声をかけられる。
「立ち止まらないですぐにこっちに来てください」
「急かすなよ」
陽仁の足がやっとジャリッとする何かを踏んだ。どう考えても部屋のなかではない。気付けば回りは薄暗い闇に包まれている。まるで夜明けと夜の狭間に立っているようだ。空気も水気を含んだものから涼しいとも暑いとも言えない温感になった。汗も自然と引いていく。
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提灯の明かりがやっとはっきりと辺りを照らし出した。
端正でいて感情のない表情をした背の高い礼装の男と二人の姿が、提灯の光で紺色のほの暗い闇から浮かび上がる。
男が慇いんぎん懃に尋ねる。
「そちらはお連れさまでしょうか」
「あ、諏訪陽仁です」
陽仁が握手しようと手を差し出すと、男は不思議そうにじっとその手を見てから、空いているほうの手を出した。
その手を見て陽仁はぎょっとする。指に節がある。いや、人間誰にでも節というものはあるが、男のそれはまるで虫の関節のように球形に繋がっている。
それでも差し出した手を引っ込めるわけにもいかなくて、気持ち悪いと思いながら男と握手をした。その手は得体が知れないほど冷たかった。
「わたしは無むみょう名と申します」
「ど、どうも......」
陽仁はすぐに手を引っ込めて無むみょう名を窺ったが、その表情はやっぱり美しいけれど人間味のない面立ちだった。
(人形みたいだ......)
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晶良が緊張した面持ちで、辺りを見回している。
「どうしたんだ?」
陽仁も少し気味悪く感じ、視線をさまよわせながら尋ねる。
「僕、ここが苦手なんです」
「ここ?」
「狭間ですよ。さっき川を渡りましたよね?」
「あれ、川なのか? でも部屋に川なんかないぞ」
意味が飲み込めずに言い返した。
無むみょう名は二人を急かすわけでもなくじっと佇んでいる。
「あの空間はもう部屋のなかなんかじゃなくて、妖あやし世と現うつし世の狭間の境界線に立ってたんです」
すぐには晶良の言葉が理解出来ず、陽仁は訝しげに眉根を寄せる。そこに三人とは別の物音がした。
「ああ、うま。ああ、うまや」
足元から聞こえてくる声に、陽仁は目を向けた。
まるまると太った赤い体に、背に亀のような甲羅を背負った何・・かが、リュックに入れておいたはずのわっぱ弁当箱を開けて中身を食べている。
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「うわ......ちゅーか、こいつ、いつの間に!」
驚きよりも、勝手にリュックの中身を漁あさられたことに怒りを感じて首根っこを押さえようとした。しかし、ぬるっとした感触がして手が滑ぬめってつかめなかった。
「ひゃあ、こりゃ、怖や」
弁当箱を落として、それが叫んだ。
顔を上げたそれの目は、まるで魚の眼のようだった。眼球だけがグリグリと大きい。鼻はなくて穴だけが開いている。口は真横に大きく、どこかひょうきんな感じだ。頭には毛はないが、ぴろぴろと棘とげのようなものが生えていて、皮膚に密着している。気持ち悪さよりも、面白いという形容が当てはまる。
「な、なんだ......こいつ」
晶良がほうっとため息をつく。
「山やまわろ童です。だからお弁当はいらないって言ったのに」
山やまわろ童がじっと陽仁と晶良を見上げて言った。
「食うてもよいか。このうまや、食うてもよいか」
不安になって晶良を見ると、彼は諦めたような顔をして答える。
「どうぞ、食べてください。その代わりいたずらはなしですよ」
「いたずらはなしか......そうか......」
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どこか残念そうなのが気になる。
「では参りましょう」
無むみょう名が踵を返して、来た道を戻り始めた。
すると、山やまわろ童がさらにすがってきた。
「そこにあるうまや、もっとくれ。もっとくれ」
陽仁のジーンズにすがりついて離れない。
「わかったわかった、やるから」
山やまわろ童が頭の上で手を叩いて喜んで、そのまま踊りながら暗がりに消えていった。
陽仁は腕にはめたデジタル時計に目をやった。
「なんだ?」
デジタル表記がめちゃくちゃになっている。すでに数字でもない。液晶も消えかかっている。
「あ、ここではそういうものは全く使えないですよ」
晶良が無むみょう名についていきながら、陽仁を振り返った。
「晶良、ここは一体どうなってんだ......」
「だからさっき言ったでしょう? 妖し世。妖かしの世界です」
「妖かし......妖怪ってことか?」
晶良は少し考えて答える。
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「そうとも言えますね。黄泉でも隠かくり世でも現し世でも常とこよ世でもない場所です」
「地獄でもない?」
「そうです」
陽仁に理解できるのは、天国とか地獄、後は黄泉だけだ。状況も意味も飲み込めず難しい顔をしている陽仁に晶良が言った。
「例えば、子供が神隠しにあったとします。この子供は神の国に行ったんじゃないんです。いたずら好きの妖かしにこの世界に引っ張り込まれたんです。この世界には時間もない。だから年も取らないし、機械みたいな文明の利器も全く意味を成さないんです。それである日ひょっこり、当時神隠しにあった歳のまま子供が現し世に戻ってくるのはそういうことなんです」
そう言われて、無むみょう名のかざす提灯を見た。
「あれはいいんだ......?」
晶良は提灯を眺めて、遠い目をした。
「あれは特製なんです。多分あの提灯を持てるのは瑪瑙姉さんと、あの無むみょう名だけじゃないかな」
「瑪瑙......さん......」
陽仁はそれまで抱いていた、翡翠や柘榴に似たような人物イメージをそっと横においた。どうも、そういう女性イメージを持ってはいけない人のような気がした。
道は提灯が照らす部分だけがよく見える。それ以外は相変わらず、ほの暗い紺色に沈んでい
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て、少しざわついている。
「いやだな......」
晶良がひとりごちた。
「何がいやなんだ? さっきからどうしたんだ」
「妖かしはいつも僕のエネルギーを食べちゃうんですよ。青嵐が言うには僕はこの世界ですごく目立っているらしくて、その煌きらめきをちぎって食べてるそうなんです。でもそれはいいんです......」
「いいのかよ......」
「ぼくがいやなのは、疲れた僕に瑪瑙姉さんが出す薬湯なんです」
何かとんでもないことでもされるのかと思っていただけに、拍子抜けした。
「薬湯ならいいだろ。優しい姉さんじゃないか」
すると、晶良が恨めしそうな目つきで陽仁を見やる。
「じゃあ、陽仁さんも飲んだらいいんですよ」
珍しく晶良が不機嫌になってしまった。
「わかったよ。俺もお相しょうばん伴するからさ」
「後悔しますよ......」
不穏なことを口走る晶良を陽仁は困惑したように見つめた。
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(それにしても......)
この妖し世の道を通ってどうやって奥州まで行くのだろう。電車を乗り継いでいくか飛行機で行くか、少し楽しみながら想像していただけに、残念ではある。
しかも案内人はどこかしら不気味な男だ。
どのくらい歩いただろう。やがて道の先に白い光が見えてきた。少なくともこの世界よりは明るい。
光は針の穴程度のものから次第にバスケットボールくらいになって、一気に陽仁たちを包み込んだ。あっという間もなく、陽仁は光に呑み込まれ足を滑らせた。
「うあっ!」
気が付くと山の斜面に転んで尻餅をついていた。相変わらず周りは薄暗い。まだ夜明け前のような暗さである。
「大丈夫ですか」
見上げると無むみょう名が手を差し伸べてくれていた。その手を見ると、あの気味の悪い節のある手ではなく人間そのものだった。
(どういうことなんだ......?)
どうやらここは自然木が密生する山の尾根らしく、斜面が両脇にある。陽仁たちがいるのは人道ではない獣道だ。
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「主あるじの住まいはこの上です」
人間としか思えない表情で無むみょう名が微笑んだ。しかし、それはまるで人形の笑みだった。
平坦な道からいきなり、しかも手が入ってない獣道を無むみょう名が先導して登っていく。いくら体を鍛えているとは言え、陽仁の息はいやでも上がってくる。ふと横の晶良を心配になって見てみると、意外に平気そうに軽々と木の根や岩を乗り越えて斜面を登っていく。
朱しゅこう鸛が彼の代わりに坂道を登っているのだろう。
いつもそれを羨ましく思う。けれど、晶良の体質を考えるとそうせざるをえないのだろうと諦める。
(楽っていやぁ、楽なんだろうけど......)
命にかかわるのは遠慮したい。しかし、晶良はそんな危ない綱渡りのような生活を幼少期から続けているわけだから難儀といえば難儀だ。
茂る梢で遮られていた空が見え始める。空が朱あけに染まり始めている。厚い雲に朝日が反射して紫に紺色から紅と橙だいだいへ変化していく。
朱色だった空は次第に紫に染まり、東しののめ雲色の光を放った。
それまで静まり返っていた森のなかに驚くほど様々な音が戻ってくる。それはまるでミュー
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ジックプレイヤーを再生したような、そんな感じだった。
鳥のさえずり、風に葉の擦すれる音、遠くから響くせせらぎの音。そして自分たちが立てている茂みをかき分け、土を踏みしめる音まで。
温度も何も感じなかったのに、音が生まれると同時に空気まで生き返った。強烈な山の香かが鼻を突く。鮮烈な青々しい香りと土の香ばしい匂いだ。
それらは五感を刺激して、何も食べていなかった陽仁の腹を刺激した。腹を鳴らしていると晶良が振り返る。
「お弁当が残っているか見てみたらどうですか?」
「そういや、作ってたな」
立ち止まってリュックを漁ったが、わっぱ弁当箱はどこにもなかった。二、三度リュックの中身をかき回したが見当たらない。
「ない......」
呆然として言うと、晶良がくすっと笑う。
「今回は僕に悪さをせずに、代わりにお弁当を持っていったようですね」
それであの赤い妖かしを思い出した。
「あの赤いやつか」
「他にも。きっと今頃、舌鼓を打ってますよ」
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「マジで持ってくとは思わなかったな。やられた......」
狐に化かされたような気分だ。
無むみょう名と晶良は陽仁の歩調に合わせて尾根を登っていった。
やがて空がもっと開ひらけて日が差し込んでくると、いきなり初夏の暑さが戻ってきた。ジトッとした空気ではないけれど、立ち上ってくる山の香は湿っている。
それでも朝の山の風は涼しくて、癒やされるようだ。
獣道だった行く手に、草を刈っただけのぞんざいな道が見えてきた。
「瑪瑙姉さんの家はもうすぐです」
晶良がまるで励ますように陽仁に声をかけた。正直、陽仁はヘトヘトに疲れていたし、心配されるのも無理はない。
「今日は僕のお相伴じゃなくて、陽仁さんにあの薬湯が出されそうですね」
心なしか嬉しそうだ。
(ものすごく不まず味いのか?)
とは言っても出されたものは食うと決めている陽仁は、その不味いのも我慢する気で開けた道に踏み込んだ。
上り道からはわからなかった空き地の全景が見えて、陽仁はその美しい光景に息を呑んだ。古民家の周囲には様々な野の花が咲き乱れ、花畑の所々にそびえる木には彩り豊かな実が生なっ
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ている。
その風景は昔話で聞いた迷まよいが家のようだった。
庭を横切って迷家へ向かう。すると古民家の出入り口がスルスルと開き、場違いなほど可愛らしい眼鏡の女性が出てきた。
くるくるとした茶髪を耳の両脇でゆるく三つ編みにし、清楚な服装でどこか少女めいた女性だった。
「いらっしゃい」
おっとりとした声音は、女性の性格を表しているようで耳に心地いい。
陽仁はドギマギしながら垂直に腰を曲げて挨拶する。
「お、おはようございます! 晶良のマネージャーの諏訪陽仁です!」
本当に自分はこういうタイプの清楚な女性に弱いと自覚しながら、陽仁は緊張で頬を赤らめた。
その様子を見た瑪瑙が面白がるようにクスクスと笑う。
「まぁ、晶良ちゃんってば、一人で来なかったのね」
「瑪瑙姉さん、彼は僕のマネージャーだから一緒なのは当然です」
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晶良が珍しく強気で言い返している。
「せっかく無むみょう名を寄越したのに、他の人もいるんだったら近道させなかったら良かった」
陽仁は、ニコニコしながらもどこかしら自分を拒否している瑪瑙に気付いた。
(俺、嫌われてるのか?)
「別にいつも近道じゃなくていいです」
「まぁまぁ、晶良ちゃんったら強がっちゃって。それに今日は疲れてないのね」
「ええ、彼のおかげで生気を取られずにすみました」
おっとりとした口調で瑪瑙がはっきりと口にする。
「残念だわ。弱ってる晶良ちゃんが好きなのに」
「僕はいつまでも病気がちの子供じゃありません」
すると、瑪瑙がゆっくりと首を傾げる。
「それにいつもより元気が良すぎるわね。そのかわりそちらの人のほうが疲れてるわ」
晶良が急いで言う。
「そうなんです。だから薬湯は彼に飲ませてあげてください!」
しばらく微笑みを崩さずに瑪瑙は黙っていたが、無むみょう名に向かって言い放った。
「無むみょう名、二人を上げてもてなしてあげて。気が進まないけど、晶良ちゃんのお友達なら仕方ないわ」
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その言葉に陽仁はほっとする。先ほどの晶良が言葉を思い出す。そのときに自分が感じたことも頭に浮かんだ。
(得体が知れない......)
にこやかに笑う彼女はとても優しそうで美人のお姉さんに見える。けれど口調の端々にどこかしら威圧的なものを感じてならない。
「普通の優しい姉さんに見えるけど......なんだかちょっと怖い感じがするな」
それを聞いて晶良が真面目な顔で呟いた。
「姉さんは魔女なんです。ワルプルギスの魔女って呼ばれてます」
「魔女......?」
わるぷるぎすというのもわからない。
「段々わかってきますよ」
「瑪瑙さんなら俺がすぐに術を使えるようにできるって言ってたけど、魔女だからか?」
晶良が陽仁を心配するような表情を浮かべる。
「本当にそんなことしたいんですか?」
陽仁は晶良の仕事を少しでも手伝えたらと、思っている。それは今も変わらない。
「ああ、ほんとにそう思ってる」
晶良がため息をついた。
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「じゃあ、僕から姉さんにお願いしてみます」
そう言って、古民家への入口の前で立ち止まった。
陽仁がどうしたのかと思っていると、晶良が手しゅいん印を切ってフッと飛ばした。すると引き戸の隅へざわざわと何かが引っ込んでいく。
「やっぱり......」
晶良が顔をしかめて呟いた。
「どうしたんだ?」
「やっぱり、仕掛けられてました」
「何を」
「姉さんは僕がここに来るたびにどこへもやらないために術を施すんです。でも幸いなことにいつも青嵐や朱しゅこう鸛に助けられてましたけど」
陽仁は驚いて聞き返す。
「なんで実の姉がお前に術をかけるんだ?」
晶良が肩を落とす。
「姉さんは僕が体の弱い子供に戻ってくれることをすごく望んでるんです......。無理なのに」
「過保護......?」
「いえ、実験に使いたいだけなんです」
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(実験......)
マッドサイエンティストのイメージが脳裏をかすめる。
「姉さんは自分が考え出す薬湯やいろいろな術を僕で試して喜ぶ人なんです。対象は僕だけじゃないんですけどね」
対象? と首を傾げると晶良が力なく笑う。
「柘榴姉さんが一番騙されてました。だから、柘榴姉さんは瑪瑙姉さんの名前を聞くのもいやがってます」
「でも服とか作ってもらってるんだろ?」
「仕方なくですよ。それに変なことしたら全部わかっちゃいますし」
「誰に......?」
「瑠璃姉さんに。姉さんは予知者だから。瑠璃姉さんだけが瑪瑙姉さんを叱れるんです」
そうなのか......と陽仁は胸をなでおろす。
「でも、陽仁さんは瑪瑙姉さんが一番嫌いな人間だから、意地悪されるかもしれないですね」
「おいおい、怖いこと言うなよ。それに俺は瑪瑙さんに嫌われることは全くしてないぞ」
「してません。ただ姉さんは人嫌いなんです、昔から」
「人嫌い......でも、無むみょう名が......」
上がり框かまちで話し込んでいる陽仁たちをじっと見ていた無むみょう名が口を挟んだ。
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「わたしは人間ではありません。主の式神です」
「え!?」
陽仁は無むみょう名を見て目を見開いた。どこか不自然ではあるけれど、人間にしか見えない無むみょう名が式神だと信じられない。
「そうですよ、無むみょう名は式神です。瑪瑙姉さんは誰にもできないことをしてのける天才肌なんです。無むみょう名は人形師の姉さんが作った人形なんです」
「人形だって!?」
陽仁は無むみょう名をまじまじと見つめる。彼の硬質な美しさは人形のものなのだろうか。
「命がない人形に、仮の命を吹き込んで錬成するのが得意なんです。無から何かを生み出すのが瑪瑙姉さんに顕現した力なんです」
陽仁はただ唖然として口を馬鹿みたいに開けているしかなかった。
「ふたりとも早くいらっしゃいな」
古民家の奥から可愛らしい声がかかる。
二人と一体は靴を脱ぎ、框を上がって四畳ほどの部屋を抜け、奥へと通された。部屋と部屋は全て襖ふすまで仕切られていて、廊下はない。
けれどやっと行き着いた八畳の部屋には縁側があり裏庭が一望できるようになっていた。そこから望む絶景は、陽仁の語彙力を遥かに凌ぐものだった。
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灰青がかった山の峰と、雲海が眼下に広がる。空には雲一つなく、澄み切った青が広がっているが下方へと白しらじら々と山の色と重なり合う。
感動を覚えながらも陽仁は不思議に思う。雲海が広がるほど尾根を登った気がしないのだ。せいぜい二キロほどの行程だったはずだ。
それに雲海に包まれれば、いやでも高地に来ていることを体感するだろう。しかし、それらは一切なかった。
不可解な思いを抱いて、陽仁は促されるままに畳にあぐらをかいた。隣には晶良が大人しく正座している。向かいには無むみょう名が座った。
しばらくして襖が開き、両手にお盆を持った瑪瑙が入ってきた。立ったまま両手が塞がった状態なのに勝手に襖が開いたのだ。もちろん足で開けた様子などない。
彼女が入ってきた途端、なんと表現いいかわからない変な臭いが立ち込める。
(これが例の薬湯か......?)
薬湯というには生臭いし、沼の匂いが漂う。
「どうぞ」
差し出された湯呑みのなかには、川の淀みに浮くものようなものがあり、濁った緑色の底は見えない。
「こ、これは......」
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「うふふ。特製の薬湯なの。疲れなんてあっという間に吹き飛ぶわよ。もしかしたら魂も吹き飛ぶかもしれないけど」
(物騒だ......)
晶良が付け加える。
「死にはしませんけど、一気に飲めば気絶だけで済むかも......」
(やっぱり物騒だ......)
けれど「出されたものは必ず完食する」をモットーにしている陽仁としては覚悟を決めないといけない。思い切って湯呑みを手に取ると、むわっと鼻をつく生臭さにうっとなる。
目をぎゅっとつぶり、息を吸い込んで、薬湯を一気飲みした。
ものすごい刺激にむせそうになった。口のなかで蛇やらムカデ、イモリ、ヤスデ、とにかく長くて足の多いものや無いものが、暴れまくる。それが口のなかからぞろぞろと喉を通って胃の腑へと落ち込んで、さらにそれらがぐねぐねと蠢くと同時に吐き気に襲われた。
「ぐっ......」
こんなものを口にしたのは生まれて初めてだ。生臭さは次第に土そのものの味になり、さらに粘土の味になった。舌の上にそれらがとぐろを巻いて離れようとしない。今、鼻で息をしたら本当に気絶すると思った。
がっと両手を畳について、身悶える。何度もつばを呑みこんで、胃のなかで暴れる得体の知
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れない存在を押さえ込もうと努力した。
しばらくそのままの姿でじっとしていたら、段々と体内を這い回る気持ち悪さが落ち着いた。
「まぁ、残念。晶良ちゃんのお友達はあれが飲めたのね」
(あれ......?)
陽仁は青ざめた顔を上げて瑪瑙を見た。
「陽仁さんが飲めたのは、僕のマネージャーたる所ゆえん以です」
「そうね、そうでないと晶良ちゃんのお友達なんて無理ね」
瑪瑙が悲しそうな顔をする。
(どういうことだ? 所以ってなんのことだ?)
咳き込みながら、陽仁は座り直した。口のなかがまだ泥臭い。そこへ無むみょう名が水の入った湯呑みを持ってきた。
「どうぞ、白湯です」
「......ど、も......」
ようやく声を出して、白湯を一気飲みした。すっと爽快感が喉に染み渡る。口のなかの不快感が嘘のようになくなった。
生きた心地がしなかった。それより、この姉弟のやり取りが気になる。
「一体何を飲ませたんですか」
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責めるように瑪瑙さんを見やる。
「うふふ。あなたの体に魔が宿ってたら食い破る術式を飲ませたのよ」
「は?」
今度は晶良を睨みつける。晶良が済まなそうに陽仁を見た。
「すみません。でも、陽仁さんが大丈夫なのはわかってましたけど、吐くかと思ってました。すごく不味いから」
「いや、不味いとかそういうレベルじゃないだろ!? それに魔ってなんだ。食い破るとか物騒なこと言ってるじゃないか!」
晶良の代わりに瑪瑙さんが答える。
「あのね、晶良ちゃんの側には邪気のない人しかいられないの。晶良ちゃんに飲ませるのは晶良ちゃんに食いついてる妖かしを滅する薬なんだけど、邪気を持つ人が飲んだら死んじゃうのよ」
怒りや驚きを通り越して呆れる。
「はぁ?」
死んじゃうって、瑪瑙さん、すごく軽く言ってないかと、改めて化物でも見るような心地で瑪瑙さんに見入る。
瑪瑙が魔女と呼ばれて恐れられる意味が少しわかった。だからといって瑪瑙をいくら責めて
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も暖のれん簾に腕押しであることもなんとなく察せられる。だったらそれを黙って見ていた晶良に問題があると踏んだ。
「晶良......」
ゆっくりと晶良を見据える。
「俺に問題がないってわかってたら、飲むのを止めるのが友達だろう? 俺を試したのか」
晶良が首を振る。
「そんなつもりはないです。でも止めればもっと酷い目に遭うってわかってましたから」
いや、止められたはずだと、陽仁が後で覚えてろという顔をしてみせると、瑪瑙があっけらかんとした調子で言った。
「晶良ちゃんが止めてたら、もっと確実に邪気を探り当てる式神使ってたから。そしたら内臓全部それに舐め回されてたんじゃないかしら。少しでも邪気があると喜ぶから。妖かしって邪気が大好きだもの」
まるで可愛い兎のぬいぐるみの話をするみたいにウキウキした調子で言われた。
「妖かしを滅するのに妖かしを使ってるんですか......?」
すると、瑪瑙が驚いたのか目を丸くする。
「晶良ちゃん、この子、飲み込みが早いわね」
「当然です」
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瑪瑙がニコニコしながら話す。
「わたしは妖かしが好きなの。妖し世を散歩するのも好き。妖かしってあまりにも無心じゃない。邪気を食べることしか頭にないの。そこが好きなの」
陽仁が反論する。
「妖かしみたいなものが好きなら、邪気だらけの人間が嫌いってどういうことですか?」
瑪瑙が困ったような顔をする。
「邪気があるからって、それがいいわけじゃないのよ? 愚かなのと無心は違うわ。人間は愚かなの。とっても頭が悪い。それにお行儀も悪いわ。欲にまみれて、他人に何をしてもいいと思ってる。約束も守らない。この世界で自分が一番だと思ってるところが嫌いなの」
そう言われると陽仁も何も言い返せなくて「グッ」と黙るしかない。
なんだか瑪瑙がこんな山奥に引っ込んで人形を作って妖かしと戯れる少女のように見える。そんな彼女が魔女だからという理由で他の姉妹から恐れられているとは思えない。
しかも、普通の人間に異能力を与える事ができる唯一の人だなんて......。
「陽仁さん......」
晶良が声を低めて声をかけてきた。
「外見と言動にだまされないほうがいいですよ」
「でも......」
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「無心だから妖かしは思い通りにできる。わたしの手足にできるの」
「ほら、別にかわいいから好きというわけじゃないんです」
そんなふうに話す瑪瑙は瞳がキラキラと輝いていてとても楽しそうだ。
「そう言えば柘榴ちゃんは元気?」
「はい、一応」
「今度遊びに来てって伝えてね」
「はい、一応......」
今にも帰りたそうにしている晶良に、陽仁は目配せする。ここに来る前に晶良と話をしたことを瑪瑙に聞きたかったのだ。
晶良が仕方ないとでも言うように肩をすくめる。
「あの......姉さん」
「なぁに?」
おっとりとした調子で瑪瑙が返事をする。
「確か術式を簡略化した道具を作れましたよね? 佐伯に持たせるために」
瑪瑙が何か思い出すように考え込んでから、ニコリと笑った。
「そう言えば、押し入れの奥にしまった気がするわ。あれがどうかしたの?」
「陽仁さんが僕の手助けをしたいから欲しいと言ってるんです」
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すると、瑪瑙が表情を明るくして陽仁を見つめる。
「まぁ! あなた、あれが使いたいの?」
「僕はやめたほうがいいと思ってるんですけど......」
「なぜ? せっかく晶良ちゃんのお友達になったんでしょ? 晶良ちゃんみたいになりたいんじゃないの?」
陽仁が勢い込んで言った。
「晶良の後ろくらいは守れるようになりたいし、いつも晶良に守られてるのは性に合わないんです」
瑪瑙がニッコリと笑ったまま固まった。かなり長い間動かないので、陽仁は心配になってくる。もしかしたら反対されるかもしれないと思ったのだ。
だが、ようやく瑪瑙が口を開いた。
「無むみょう名、あれ持ってきて」
「はい」
無むみょう名が部屋を出ていった。
「晶良ちゃんのお友達さん。あれを上げる代わりに代償を欲しいの。誰かに物をただでくれっていうのはとっても失礼なことよ?」
陽仁はかしこまって正座をする。
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「はい、そのとおりです」
「代償をくれるって先に約束して」
「あの、どんな代償なんですか?」
「上げてから教えてあげる」
「い、命とかじゃないですよね......?」
陽仁は用心して訊ねた。
それを聞いて、瑪瑙が愉快そうにコロコロと笑った。
「まぁ、わたしそこまで悪魔じゃないわ」
それから首を傾げるようにして、陽仁に告げた。
「仕方ないわね、特別に教えてあげる。五回術を使うごとに一匹、泥でいそ蛆を持ってきて」
陽仁は驚いて口を開けたまま返事をするのも忘れた。
「瑪瑙姉さん、陽仁さんにまで泥でいそ蛆を捕まえろなんて無理です。鍛錬すらしてないのに!」
晶良が膝立ちになって声を上げた。
「できないなら渡さない」
瑪瑙が可愛らしく口を尖らせた。
陽仁は黙ったまま考え込んだ。
あの、屍しびと人の魁さきがけとも言える泥でいそ蛆をどうやってつかまえるというんだろう。それ以上に泥でいそ蛆を
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捕まえて何をするんだろう......?
「持ってまいりました」
無むみょう名が手に黒いものを持って部屋に入ってきた。そしてうやうやしくそれを瑪瑙に手渡す。
「これが、あなたの欲しいものよ」
摘つまむようにして黒いものを取り上げた。
それ何の変哲もない手てっこう甲だった。
「これには五つ術式が編んであるの。一つ使うごとに一本ずつ指の感覚がなくなるからわかるわ」
(それでも十分代償じゃないか......)
瑪瑙はニコニコしながら続ける。
「それでね、その五つの術式のうちに泥でいそ蛆を一匹捕まえられなかったら、指の麻痺を治してあげないことにしてるの」
晶良が眉を顰ひそめて陽仁に言う。
「これで何人か佐伯のものが駄目にされたんです」
「駄目?」
「この代償のせいで術法が使えなくなったんです」
不思議そうに瑪瑙が反論する。
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「あら、だって、泥でいそ蛆を捕まえられなかったんだもの。当たり前じゃない。自分が持っている以上の力が欲しいなんて、贅沢よ」
そして、ニッコリ微笑んで手てっこう甲を陽仁に向けた。
「それで、欲しいんでしょ?」
陽仁は用心して念を押した。
「泥でいそ蛆を一匹でいいんですね。それで晶良の助けができるんですね?」
クスッと瑪瑙が笑う。
「そうよ。晶良ちゃんを守るんだから、このくらいの代償は当たり前だわ」
陽仁はつばを呑みこみ、彼女が言葉を聞いて考えたことを口にする。
「あの......俺の指は十本あります。十回使っても一匹捕まえたら麻痺を治してくれますか」
「まぁ、素晴らしいわ。この人間、晶良ちゃん思いね! そうね、晶良ちゃんのこともあるからそれでもいいわ。これって特別なのよ?」
瑪瑙が手てっこう甲を無むみょう名に渡す。それを無むみょう名が陽仁に差し出した。陽仁は手てっこう甲を受け取って眺める。
「これでどうやって泥でいそ蛆を捕まえるんでしょうか? まさか手づかみ?」
「いいえ、その手てっこう甲は妖し世に繋がっているの。そこを通って、わたしの所に届くようになってるのよ。術を使うときに泥でいそ蛆に向ければいいわ」
陽仁は胸をなでおろした。それなら自分でもできそうだ。ホッとしたのもつかの間、晶良が
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付け加える。
「瑪瑙姉さん、大事なことを伝えてないですよ」
すると、瑪瑙が面白くなさそうに頬を膨らませる。
「晶良ちゃんって、いつからそういうふうに生意気になったのかしら。小さいころはわたしの言うとおりにしてたくせに」
「大事なこと?」
陽仁が尋ねる。
「陽仁さん、たしかに泥でいそ蛆は妖し世へ行きます。でもそこから姉さんのところへはいかないんです。姉さんは妖し世に転移した泥でいそ蛆を自分のもとまで持ってくることを条件にしてるんです。それができなかったから、佐伯のものは駄目になったんです」
「は?」
(あの妖し世からここに持ってくる?)
「無理に決まってるじゃないか」
「じゃあ、それを返して」
瑪瑙が手を出してくる。
陽仁が困り果てていると、晶良が耳打ちした。
「青嵐に運ばせててもいいですよ」
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「ズルは駄目よ、晶良ちゃん」
「晶良、この術はここ一番ってときに使うようにする。そうすれば、十回はお前を助けられるだろ?」
晶良が眉尻を下げる。
「陽仁さん......」
「仕方ない。ただで力が手に入るなんて調子いいこと考えてた俺が悪い」
「そこまでしなくても、僕が陽仁さんを守ります」
「何言ってんだ、お前、岡山で死にかけたの忘れたのかよ」
岡山で化物と対たいじ峙したときに、晶良は自分の力を使って一度死にかけた。その時、陽仁は何もできなかったのを今でも悔やんでいる。最後の最後まで自分は晶良のお荷物でしかなかったからだ。
「何を言っても駄目ですか?」
「ああ、俺はお前の相棒だからな」
晶良が悲しそうに陽仁を見つめる。
「ねぇ、それであなたはこれが欲しいの? どうなの?」
「ください」
陽仁はそう言って瑪瑙を見据えた。
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瑪瑙が楽しそうに笑う。
「どうなるかしら? 楽しみね」
晶良が深くため息をつき、言った。
「それで、瑪瑙姉さんは今回なんの用で僕を呼んだんですか?」
瑪瑙が思い出したように両手を胸の前で合わせる。
「あのね、晶良ちゃんがわたしのことを話題にしてたから会いたくなったの」
晶良が静かに言葉を返す。
「また、僕を見張ってたんですね」
「だって晶良ちゃんのこと、大好きなんだもの」
最後に、瑪瑙は悪びれずに答えた。
帰りも妖し世を通って帰ることになり、無むみょう名が提灯を提さげて伴ってくれた。
妖し世はいつでもほの暗く、夜が明ける前、もしくは日が暮れる直前のように見える。
帰り際から晶良が珍しく怒っているのか一言も口を利いてくれない。なぜ怒っているのか陽仁にはわかっている。瑪瑙の無茶な代償と引き換えに手てっこう甲を手に入れたからだ。
「いつまでも怒ってないで機嫌直せよ」
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「怒ってませんよ......」
そう言いつつも晶良の顔はよそを向いている。陽仁は困り果てて頭を掻いた。
ずいぶん歩いたころ、辺りが騒がしくなり、暗がりのなかから声が聞こえてくる。
「うまやくれ、うまや」
「お前か」
陽仁が今朝見た山やまわろ童を思い出した。
「お前今朝全部食っただろ」
「うまや......」
「人のもの勝手に食ったくせにまだ欲しがるのかよ」
そこまで言って、陽仁はふと思った。一つ目の弁当を食べたとき、晶良は山やまわろ童に「いたずらはなし」と言いつけていた。そして実際にいたずらはされなかった。
しかし、陽仁が結果的に二つ目をやったとき、自分は何も言わなかった。
そのことがなぜか瑪瑙の言ったことと重なった。
「ただで物を欲しがるのは贅沢だ。代償が必要だ......」
何気なく呟いた。
声が答える。
「うまやくれ、なんでもする、うまや」
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ハッとして陽仁は立ち止まって山やまわろ童に言った。
「うまやをただでやっただろ。これからも欲しいか?」
晶良が驚いて陽仁を止めた。
「妖かしと取引なんてしちゃ駄目です。面倒ですよ」
「この場合、面倒でもなんでも必要なんだ」
「必要って?」
晶良が不思議そうな顔をした。
「おい、うまやをやる代わりに俺の言うことを聞くか?」
「きく、きく」
「俺がここに泥でいそ蛆を放り込んだら、それを瑪瑙って人の所に届けてくれるか?」
「めのー......」
「妖かしが好きな瑪瑙だよ」
「しってる、めのーしってる」
「そこに行けるか?」
「いけるいける」
陽仁は声を潜めて晶良に尋ねる。
「ほんとに知ってるかな?」
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すると、代わりに無むみょう名が答えた。
「知ってます。妖し世とあの住まいは繋がっておりますから」
(やっぱり......)
陽仁は改めて山やまわろ童に話しかける。
「俺は十回、お前に弁当をやる。そのたびに泥でいそ蛆を瑪瑙さんのところに届けるんだ」
「まことか、じっかい。うまやくれるか」
「やるよ」
晶良が手を額に当てて呆れたようにため息をつく。
「契約完了しちゃいましたね......。陽仁さん、妖かしは数なんかわからないですよ。十回なんて、通じないんです。一生あの山やまわろ童にお弁当を上げることになりましたよ」
陽仁が驚いて晶良を振り返る。
「マジか?」
「だから知らないですよって言ったじゃないですか」
ふたりと一体は無事に妖し世を通り、晶良のペントハウスまでたどり着いた。
もう昼ごろかと思ったら、まだ外は薄暗かった。夕暮れかと思ってデジタル時計を見ると、午前四時のままだった。
その時に無むみょう名が言った。
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「山やまわろ童のためにここに穴を残しておきます。主の約束、くれぐれもお忘れなきように」
そう言って彼は妖し世の向こうへ去っていった。
「これだから陽仁さんは......!」
「いいじゃないか。弁当くらい毎日お供えするさ。どうせお前の飯のついでなんだし」
また深いため息を晶良がついた。
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第三章
「アニキー」
座卓に突っ伏した陽向が陽仁におねだりをする。
「スマートフォン欲しい」
陽仁は座卓の上の食器類を片付けながら、妹の中学生らしいわがままを受け流す。
「駄目だ。携帯電話があるだろ」
陽向がぶすっとして頬杖をついた。
「だってさー、他の子はみんなスマホなんだよ? みんなでSNSチャットしてるんだよ。仲間に入りたい」
陽仁が手を休めて聞き分けのない陽向に言い放つ。
「うちはうち。自分でバイトできるようになってからにしろ。それに学校で話ができるのにチャットとか必要ないだろ」
陽向が自分の携帯電話を取り出した。
「でもそれは学校で話せないこととかプライベートなこと話すから......。電話の代わりもできるし、ネットで電話ができるんだよ」
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陽仁が食器を持って立ち上がる。陽向も残りの食器を持ってついてくる。
「だからさ、ね、いいでしょ?」
「何がいいのか、わからん。ネットならパソコンがある」
「パソコンは外で使えないじゃん......。あたしは外で使いたいの!」
駄々をこねる陽向を無視して、流しの食洗機に汚れを洗い流した食器を入れていく。
「駄目なものは駄目」
陽向が口を尖らせる。
「アニキのケチッ」
「はいはい、ケチで十分です」
その間中、晶良はテレビを見ている。この兄妹のじゃれあいはいつものことだ。
お茶を持って座卓に戻ってきた陽仁に、陽向はまだ言い募っている。
「学校で噂になってることとか、先生に聞かれたらいけないこととか、チャット友達に入れなかったら学校で無視されるんだってば」
「そういう器の小さいガキは上から目線で馬鹿にしてろ。それに先生に話せないこととか聞かれたくない話を隠れてするな。それから噂とか信じるな」
聞く耳を持たない陽仁を陽向が舌を出して怒ってみせる。
「あたしが学校でいじめられたら全部アニキのせいだからね! それに噂の写真も見せてあげ
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ない」
「写真まで出回ってるのか」
陽仁が呆れる。子供の噂なんてたかが知れている気もするが写真によっては消去しなくてはならない。
「見せてみろ」
「ほら、アニキだって興味あるじゃん」
「それとこれは違う」
陽向が取り出した画像を覗き込む。そこには白く塗られた壁に黒い焦げた影が映っていた。人影よりも薄く斑まだらで、タバコをもみ消したような跡を点描で人ひとがた形にした感じにも見え、強いて言うなら焼身自殺した後の焦げ跡のようだ。
(どこかで見たことあるな......)
「ね、気味が悪いでしょ?」
日向のことを無視して、陽仁は頭に収まってる記憶を探った。そして数日前に高級クラブで見た黒い焦げ跡を思い出した。
「ちょっと貸せ」
「あ、何すんの!」
文句を言う陽向を尻目に、陽仁はテレビを見ている晶良に呼びかける。
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「晶良、ちょっとこれを見てくれ」
ドラマを見ていた晶良が振り返り、言われた通り陽仁が差し出した携帯電話の液晶画面を覗き込んだ。
しばらく黙った後、静かに言った。
「これ、どこの写真ですか」
晶良ラブな陽向が身を乗り出して晶良に言った。
「学校。うちの学校の新校舎の壁にこれが今月に入ってから浮き出たんだよ。これの幽霊を見たって人もいるんだ」
晶良はじっと画面に見入ったまま黙っていたが、やがて口を開いた。
「あの時の人形と同じですね」
「ああ」
陽仁が答えた。
(どうして学校に?)
その疑問を晶良が代弁する。
「なぜ学校にあの焦げ跡があるんでしょうね。泥でいそ蛆が湧いている様子もないし......」
急に陽向の眉が曇る。
「何? 晶良ちゃんの仕事と関係あるの?」
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陽仁と晶良は顔を見合わせる。陽向に聞くべきかと晶良の目配せしてきた。
「なぁ、もっと噂話ってないのか。なんか変なこととか」
陽向が陽仁のほうを見ずに晶良に向かって答える。
「最近、学校に来なくなる子が多いみたい。あと、家出していなくなった子とか」
「そういうのはどこの学校でも普通にあるんじゃないのか?」
陽仁がそう言うと陽向が眉を顰ひそめて兄を睨む。
「じゃあさ、ひとクラスに二、三人いなくなったり学校来なくなったりって普通にあるの?」
それを聞いて晶良がテレビから離れる。
「その話、もう少し詳しくできますか?」
すると、陽向が唇を突き出す。
「だからその話、スマホでないと聞かせてもらえないんだってば」
そうなると陽仁も考えざるを得ない。けれど、スマホは使用料金も高い。中学生に持たせられるような代物ではなかった。
「しゃあない。俺がスマホを買って使う。お前は携帯電話を使え。その代わり、変なことには首をつっこむなよ」
それを聞いて陽向が目を輝かせる。
「ほんと? やったー!」
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「でも家に帰ってからしか扱わせない」
陽向が頬を膨らませた。
「ちぇー」
お茶をすすりながら、陽仁が陽向に告げる。
「その代わり、勉強がおろそかになったら使わせないからな。お前、都立に行くんだろ」
「う〜」
陽向が悔しそうに唸った。
医者か弁護士を目指している陽向は自力で自宅学習をしている。もともと頭がいいのか成績は上位だ。授業料の安い都立か国立を目指しているのだ。別に押し付けられた目標ではない。陽向が自分から言いだしたことなのだ。
だから陽仁に言い返せず、押し黙ってしまった。
「スマホってどんなのですか?」
そう言われてみれば陽仁もスマホがどんなものかわからない。
「携帯屋に行って聞けばいいだろ」
「あたしもついて行くー」
と言うわけで次の休みに三人で携帯ショップに行くことになった。
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土曜日の午後、三人でスマホを選ぶために携帯ショップへ行ってみて、陽仁は愕然とした。
「たけぇ......」
使用料金、携帯電話端末代金、インターネット接続代金。今使っている携帯料金の優に三倍はする。それでも一番安いプランだと店員に言われた。横でぼんやり店内を見回していた晶良が店員に聞く。
「携帯電話端末代金を先に払ったら安くなりませんか?」
「月に千五百円ほど安くなりますね」
「それでも四分の一しか安くならないな......」
「じゃあ、経費で落とせばいいんですよ。あれってなんでもいいんでしょう?」
そう言われて陽仁は晶良に言った。
「なんでもじゃないけど......仕事以外に使う可能性あるぞ?」
「でも今回は仕事の一環として使うんじゃないですか」
「まぁ、そうだけど......」
どこか納得できないまま、晶良が契約し携帯電話端末代金を先払いして契約を終えた。
「電話番号が変わらなくてよかったですね」
晶良がニコニコして言った。
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「やった、これでチャットできる!」
喜んでる妹を見やり、陽仁は複雑だった。
(もし、チャットなんかさせて陽向がこの焦げ跡の原因に関係したら......)
それだけが心配の種だ。
とにかく、原因を探れば、柘榴が発見したものや一連の流れで発見した焦げた跡の謎が解けるかもしれないと思った。
結局、陽仁と晶良は例の失踪した高級クラブの経営者について調査をすることにした。これで何がわかると言う保証はないが少しでもヒントがあるかもしれないと思った。
オーナーの鳥羽に連絡を取ると、事務所の女性に彼は失踪したと言われた。
「どう言うことですか? 二週間前にお会いしたばかりなんですけど」
『あのぅ、そちら様で何かお心当たりはございませんか?』
晶良が隣で聞いていて、通話を代わってくれと頼んでくるのでスマホを渡した。
「あの、清掃の依頼を受けていたものなんですが、失踪したって言うのはいつごろなんですか?」
『一週間前でしょうか。自宅にも連絡したんですけど』
「あの、御社でお話を伺っても構わないですか?」
93
『社長にちょっと聞いてきます。しばらくお待ちください』
女性が受話器を保留にした。
「鳥羽さんが失踪か......。どう言うことなんだ?」
「さぁ。事務所に行ってみて関係があるかどうか確かめるしかないんじゃないでしょうか」
「そうだなぁ」
電話口に戻ってきた女性が『明日、社長がお会いできる』と伝えてきた。
翌日の昼に、二人は鳥羽の事務所に赴いた。
事務所内はごった返している。どうやら新社長就任に伴って模様替えなどしているらしい。新社長は鳥羽の息子だ。鳥羽によく似たいかつい青年だが父親のような威圧感はない。
「初めまして、鳥羽の息子の忠ただあき明です」
にこやかに陽仁と晶良に握手を求めた。
晶良は落ち着かない様子で周囲を見ている。
ゴタゴタしている部屋の隅に応接セットがあった。そこに案内されて席を勧められる。
「それで父の何についてお聞きしたいんでしょうか」
晶良が口を開く。
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「このあいだ、借り主が失踪されたテナントの清掃をしたんですが、そのことで鳥羽さんは何かおっしゃってましたか?」
思い当たったように忠明がぽんと手を打つ。
「ああ、あれですね。あれは父が友人に頼み込んで貸したんです。その友人が失踪したんですから皮肉です」
「失踪したのは忠明さんのご友人だったんですか......。もしかしてその前の方々も?」
「それはわからないです......。でも、父は高いテナントを貸した方とはよく飲みに行ってましたからごく親しい友人だったんでしょう」
「じゃあ、失踪した方々と頻繁に交流があったということですね」
「そうなりますね。でもそれが?」
晶良が首を傾げる。
「借り主が立て続けに失踪した挙句、貸した本人も失踪したんですから、何か関係あるのかなと思ったんです」
忠明もそれは考えていなかったらしく、苦笑する。
「そのことで同じことを警察の人にも言われました。でも、たまに飲みに行くといってもテナントを貸している以外に金銭関係で揉めていたわけじゃないんですよ」
「警察の方が来られたんですか?」
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「ええ。警視庁の佐さえき伯刑事さんです」
晶良が黙り込んでしまったので、慌てて陽仁は尋ねる。
「鳥羽さんが失踪する前、何か変わったことはなかったですか?」
「変わったこと......。さぁ、父は結構秘密主義で、今それでかなり苦労しているんです」
「それにしても失踪してすぐに忠明さんが新社長に?」
「それが......、変だと思われるかもしれないですが、それがこの会社を最初に経営してた大叔父の遺言なんですよ」
「大叔父さんが会社の創始者だったんですか? でもその遺書は、失踪したらって限定なんですか?」
「いいえ、なんと言うか、変なことなのでこう言うと頭がおかしいと思われるかもしれないんですが、あるものを管理するのに引き継ぎがすぐに必要だって言われてて」
陽仁と晶良が同時に尋ねた。
「あるもの?」
「ええ、見てみますか?」
「あ、はい」
晶良が立ち上がると、忠明がにこやかに笑って制し、座るように促した。
「ごちゃごちゃしているので、座ってお待ちください」
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忠明が再び戻ってくると、その手には大きな桐の箱が抱えられていた。それを机の上に置く。桐の箱は縦に少し長い。横二十五センチ縦三十センチほどだ。
「これは?」
晶良が聞くと、忠明が苦笑いを浮かべる。
「本当に変なものですから呆れないでくださいね」
と言って箱を開けた。箱のなかのものをうやうやしく取り出して見せる。
ダルマ型のすべすべした質感のものだ。誰かがふざけて落書きをしている。マジックでへのへのもへじと書いてあるのだ。
「これを代々引き継いで大事にしろと言うことなんです」
陽仁は内心笑いをこらえた。こんなふざけた代物を大事にしろと言う大叔父の気持ちがわからない。
「ところで大叔父さんにもお話を伺いたいんですが」
晶良の言葉に忠明が真面目な顔つきになった。
「大叔父は失踪しました。次に引き継いだ伯父も。それに加えて父もでしょう? それでちょっと怖くて......」
「みんな同時期に?」
「いえ、この一年の間に。この変なものは三年前に大叔父がある方から譲り受けたと言って持
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ってきたんです。実はこの会社を引き継ぐ条件のなかにこれの管理も含まれているんですよ」
「管理?」
「宗教かなぁって、ちょっと気になってるんですけど」
「宗教......」
「それがですね、父が言わずにいなくなったので、困ってるんです。管理できないから」
晶良がそれを手に取って見て、じっと見つめる。
「軽い。なかには何も入ってないみたいですね」
「はい」
「だるまとか瓢ひょうたん箪でもないですね。穴が空いてないですから。穴が空いてないのに中が空洞って、かなり変わってますね」
「そうなんですよねぇ......」
三人は変なものを囲んで考え込むように黙った。
「ゴミの日にまとめて捨てようかと思ったんですけど、なんか怖くて......」
晶良が変なものから目を離し、忠明を見つめる。
「これについて鳥羽さんはなんておっしゃってましたか?」
「これについて......。そういえば、これは商売繁盛のアイテムだと言ってました。ただ一定期間経ったらある場所に持って行って、このなかに吸い込まれた悪運を取り除かないといけない
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って。ね? 宗教みたいでしょう?」
「そうですね」
陽仁も頷かざるを得なかった。
「でも、こんな怪しいもの、引き継ぎたくないんで、捨てるのが一番ですよね?」
「すぐに捨てなくてもいいでしょう。もしかしたら、これを持ってきてくれと言う人から連絡があるかもしれないですし」
晶良の言葉に忠明は渋々承知する。
「その誰かがわかった場合、わたしはどうしたらいいでしょう?」
「僕に連絡をください。それと、これ、佐伯刑事さんにも見せたんですか?」
「あ、いえ。テナントと自宅を見て帰られました。車を持ってかれちゃいました。でも、これについてはわかりましたけど、こういうのを清掃屋のあなた方に任せていいものなんでしょうか......?」
すると、晶良が笑って言った。
「僕、拝み屋ですから」
その言葉を聞いた忠明は目を大きく見開いて、それから納得したように何度も頷いた。
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鳥羽とその親族、さらに知り合いが三年の間に立て続けに失踪したと言うこと以外何もわからず、陽仁と晶良は帰途につくことになった。
「なんもなかったな」
陽仁が事務所を出て開口一番にそう言うと、
「そうでもなかったですよ」
と晶良が意外なことを口にした。
「なんだ? たくさん小鬼でもいたのか?」
小鬼は悪心を発している人間の側に出現する雑ざこ魚のようなものだ。
「いいえ、反対ですよ。驚くほど綺麗で......。とても人が働いている場所には思えなかったです。人が働いてる場所って意外に小鬼が湧きやすいんですけど、欲も悪心も綺麗になかったです。反対に気味が悪かったですよ」
「晶良がそう言うならよっぽどだな。てことは、あの変なものにはやっぱりご利益があるってことかな......?」
「そうなりますね。しばらく忠明さんとは連絡を取っておいたほうがいいです」
「あとさ、お前、警察のこと気にしてたな」
「ああ、佐伯って言ってたからつい」
「佐伯は一宮に仕えてる家系だったよな?」
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「はい。警察にも佐伯は何人もいるから......。まさか柘榴姉さんが関係してるのかなって思ったんです」
「あー、柘榴さんかぁ」
陽仁はそう言って警視庁特別捜査室零れいか科に所属している、柘榴を思い浮かべる。零科には佐伯のものもいる。少しでも能力が発現すると一宮一族の補助をするために動くのだ。
「偶然じゃないか?」
「だといいんですけど......」
柘榴が動いているとなると、思っている以上に事件は大きいということになる。下手に首を突っ込んで柘榴に大目玉を食らうのもいやだなと陽仁は思った。
結局、タクシーを呼ばず歩いて駅近くまで行こうということになり、のんびり歩いて帰っていると駅前の本屋に人だかりができていて、しかも行列を組んでいる。
「あれなんでしょう? ......うわ」
晶良の反応に陽仁が尋ねる。
「どうした?」
「あの人たちすごく黒い」
「......泥でいそ蛆か?」
「欲ですよ。我欲がすごい出てます。金銭欲やいろんな欲の塊になってます」
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「すごいな、俺にはただの人だかりにしか見えないんだけど」
「小鬼もたくさんいますよ。あの近く、僕、通りたくないです」
商店は大型のチェーン店で、よくサイン会や講演会をする書店グループだった。なんの列か陽仁は興味が湧いて、晶良にここで待ってるように言うと列を作った張本人を見物しに行った。
晶良が大げさだと思えるくらい街路樹の影に隠れて、その行列を見やるとすぐに目をそらしている。
陽仁は通り過ぎるふりをして書店の前にある立て看板を見て、「へぇ」と声を上げる。釈のサイン会だったのだ。
『これだけであなたのコミュニケーション能力は向上する!』と言う本がベストセラーになった著者だ。著作はこの一冊だけでこの本が出たのはもう三年前になるらしい。講演会の日付けもある。
「一週間後か......」
(そういや、陽向の友達が行きたいとか言ってたやつかな)
ぼんやりと考えてから晶良のもとに戻った。
「釈卓也のサイン会だった」
「釈卓也......。あのテレビの人ですね。あぁ、彼、あの変なものにそっくりですよ」
晶良の言葉に陽仁が言う。
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「あの顔描いてた瓢ひょうたん箪か」
「そうです。中身が空っぽって言ったでしょう? もしかしたらですけど、ものを吸い込む瓢ひょうたん箪の昔話を聞いたことないですか?」
「あー......、確か西遊記にそんなのがあったなぁ」
「あんなふうに欲や悪心を吸い取っているかもしれないですね。あながち、忠明さんが言ってたことは嘘じゃないのかも」
「じゃあ、どこかにあの瓢ひょうたん箪を持っていってもらって手がかりを掴むしかないのか?」
陽仁にはあのふざけた瓢ひょうたん箪にそんな力があるように思えなかった。けれど、晶良が嘘をつくことなど今までなかったし、嘘をつくいわれすらなかった。
「釈卓也には興味あります。いやだけど我慢して行ってみます」
珍しく晶良がそんなことを言うのを見て陽仁は驚いた。
晶良は場や人を浄化する力を持つ。本来はもっと強い力だが、使えば自分の命を消費して死んでしまうという、もろ刃の剣なのだ。
だから、人の多い場所などに行くとどれほど制御していても浄化する力を使うことになってしまう。そのせいで彼は電車も飛行機も使わないし人の多い街には出たがらないのだ。
その彼が見たいと言って人混みのなかに入ると言うのだから、陽仁はよほどのことだと思った。
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晶良が先導して陽仁と書店の前まで行き、なかを覗いてみる。
「なかに入らないとわからないな」
陽仁の言葉に晶良はうんざりした声で答える。
「そうですね」
仕方なしに列の横を通って店のなかに入り、その列が二階に続いているのを確かめると、階段を上っていく。
二階には参考書や啓蒙書、他にビジネス書が置いてある。その一角にサイン会会場を設けて、山積みになっている本を一冊買ったらサインするという仕組みのようだ。
晶良が遠目から釈卓也を見て、「うっ」と唸った。
「どうした?」
「あの人、変です。サインをもらってる人から欲を吸い取ってます」
「え?」
陽仁も遠目から釈を見る。イケメンが中年女性を中心に男性や若い女性にサインをして握手しているだけだ。まるでアイドルのサイン会のようにも見える。
「あんなことできる人間、見たことないです」
「でも良くないものを吸い取ってくれるんだろ? だったらいいじゃないか」
「そうですけど......。でも欲を吸い取れば、自分自身我欲にまみれちゃうのが普通です。でも
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あの人はそれがないんです」
「特異体質かもしれないぜ?」
なんだか納得がいかないといった感じで晶良はしばらく釈を見ていたが、慌てるように階段を降りて人混みから離れた。陽仁はその後ろを追いかけて表に出る。
「見すぎちゃって疲れちゃいました」
晶良が全力疾走してきたように息をゼイゼイと荒げている。
「意識集中させてたもんな」
「はい......。やっぱり集中すると良くないですね......」
「あれだな、ぼんやりして力を使わない方向で行くか」
「そうですね」
普段の晶良は本当に鈍くさい感じがするけれど、それはわざとなのだ。そうしなければ、抑えている力が漏れて周囲の小鬼などを滅してしまう。
反対に生き物の生命力も活発にしてしまう。晶良が少しだけ力を漏らし続けていれば、空気は清浄なものになり、周囲の人間は生命力が上がって元気になる。その代わり晶良自身は寝込んでしまうというわけだ。
「ほんとに、そんなんで子供んとき、よく死ななかったな」
すると晶良が照れながら笑う。
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「力が顕現するのは第二次性徴期なんです。僕は少し早かったみたいですけど、死んでしまうほどじゃなかったんだと思いますし、朱しゅこう鸛のお陰で顕現するまで持ち堪こたえましたから」
もしも、そのまま体が弱かったら、晶良は一宮一族に仕える側の佐伯に養子に出されるところだった。そうならなかったのは、ひとえに晶良が幼いながらにして神霊を二にちゅう柱、式神にしてしまうということをやってのけたからだ。
それは一宮一族の誰もができないことだった。神霊は式神にならない。晶良だけが神霊を式神のように扱えるわけだ。
これ以上町中にいることもできなくなり、二人はタクシーに乗り、ペントハウスに戻った。
陽向がスマホを手に入れてから一週間。もうすぐ夏休みに入る。学期末試験も終えて陽向は一段落ついたとばかりに、陽仁からスマホを借りてはSNSに入り浸っている。
食事が済むと、陽仁とは一切口も聞かないで、クラスメイトとチャットをして遊ぶ。それを晶良は物珍しげに横から見ているが、陽仁は苛ついて仕方がない。
一体何を話しているか気になって仕方ないので一度聞いてみると、
「アニキには教えない」
と言ってそっぽを向いた。しかも、SNSをやめるときはちゃんとログアウトしてしまうの
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で、勝手に覗くことはできないし、そのつもりもないが、兄としては変なものに毒されているんじゃないかと心配になってしまう。
「あいつ、やばい友達と仲良くしてるんじゃないか......」
陽向がスマホを陽仁に返して寝に行ったあと、頭を抱えてぼやくと、晶良が陽仁を安心させるように言った。
「陽向さんは、学校で失踪した子や病気になって来なくなった子の心配をしてるみたいですよ」
「あ、例の話か。そういえば学校の人ひとがた形の焦げ跡、あれからどうなったんだ......?」
「消えてないみたいです」
「あいつ、スマホ使ってそんな話、してたのか」
「ほかにも遊びに誘われてましたよ。陽仁さんに聞いてからって断ってましたけど」
陽仁はそれを聞いて少し機嫌が良くなった。陽向に信頼されてるような気がした。
(あいつの反抗期もそろそろ終わりかな)
ホクホクしながら風呂に入る準備をしようと壇から下りたとき、晶良がボソリと呟いた。
「お友達クラブってなんでしょうね?」
「なんだ?」
「クラブ活動なのかな?」
「そんな変な名前のクラブ、普通はないだろ」
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「どうも、セミナーに行ってきた子から誘われてて、迷ってるって言ってました」
陽向から直接聞いたわけではないし、本当に行きたければ、すぐに相談してくるだろう。
「様子見でいいんじゃないか?」
「それにしてもスマホってすごいですね。こんなに小さいのになんでもできるみたいです」
なんだか物欲しそうに晶良が言った。それを聞いた陽仁が即反対する。
「駄目だ。そうやってすぐ使いもしない電化製品買う癖なおした方がいいぞ。それよか、お前、機械音痴じゃないか」
「そうですけど......」
少し名残惜しげに晶良はスマホを眺めていた。
しかし、陽仁が危惧していたことはすぐに起こってしまった。
食事が終わってしばしのお茶タイムに陽向が言い出した。夏休み直前なって、陽向から遊びに誘われたので行っていいかと聞かれ始めたのだ。
「アニキー、友達がね、OB会かねてバーベキューするんだって。行きたい」
「どこで」
「すぐちかく。千葉の海浜公園」
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たしかに電車では直通で行けるし、すごく遠いわけではないが、だからといって近いわけでもない。
「誰と行くんだ?」
「みほりん。この間、釈卓也のファンになったって話した子」
陽仁はそれを聞いて眉を顰ひそめる。
「釈のファンか。セミナーとかに誘われてないだろうな」
すると、陽向が驚いた。
「なんでわかるの!? そうだよ。セミナーにも誘われてる」
陽仁はしばらく考えた。この間、釈がどのくらい変なやつなのか、晶良と話したばかりだ。セミナーに行くのは駄目だと即断する。けれどバーベキューはどうだろう。釈と関係があるのだろうか?
「まさかバーベキューってセミナー絡みじゃないだろうな?」
それを聞いた陽向がキョトンとする。
「セミナー? ぜんぜん違うよ。みほりんには誘われたけど、お友達クラブの先輩が主催のやつなんだって」
「ちゅーか、そのお友達クラブってなんだ」
「仲良しをたくさん作る会って聞いた。SNSのオフ会だって言ってた」
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「お前、夢中になってスマホで遊んでたのは、そのお友達クラブの連中と話してたのか?」
「ううん、クラスの子。みほりんがみんなを誘って、みんなで行くって決まったんだよ〜、あたしだけ行けないのってやだ」
陽仁は腕組みをして考え込んだ。この年頃は友達がいるかいないかがステータスだ。友達の質によるが、陽仁は特に陽向の交友関係に口を挟んだことはない。けれど、今回は違う。
「お前、そのお友達クラブの連中と会ったことあるのか、知ってるやつがいるのか?」
陽向が素直に首を振る。
「いない。みほりんだけ」
「じゃあ、駄目だ。バーベキューならクラスの友達をここに呼んでやればいいだろ。死ぬほど広いし、プールだってある」
そうすると、陽向が目をそらして一言。
「やだ」
「なんでだ」
「やだったらやだ」
「だからどうしてだよ」
背後でテレビを見ている晶良を陽向は振り返って、小さな声で言った。
「友達が晶良ちゃん見たら絶対ファンクラブ作るに決まってるもん」
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「ファンクラブふっ!」
最後の方は吹き出していた。陽仁はニヤニヤしながら陽向に返す。
「いいじゃないか。お前だって晶良のファンだろ」
すると、陽向が頬を膨らませる。
「ファンじゃない。誰にも晶良ちゃんを見せたくないんだもん」
(お、いっちょ前に独占欲発揮か?)
陽仁がニヤニヤしているのを見て、陽向が兄の頭をポカリと叩いた。
「笑うな、バカアニキ」
「笑って、ぶふ......ない、いてぇよ、たたくな」
「とにかく、ここじゃ駄目。それよか、バーベキューに行きたい。海浜公園行きたい」
珍しく陽向が駄々をこねだした。
陽仁はため息をついて陽向を見たあと、晶良に目をやった。
「おい、晶良。お前バーベキュー好きか?」
晶良が振り返って答える。
「お肉でしょう? 好きです」
それがどうかしたのかという顔で陽向が陽仁を見る。
「というわけで、保護者も参加します」
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「えぇええ!」
陽向はしばらくぶちぶち文句を言っていたが、よっぽど行きたかったらしく、チャットに「行く」と返信した。
「来ていいって。なんか参加する人、大人でもいいみたい」
「じゃ、決まりな」
陽向がチャットをやめてだらしなく座卓に両手を伸ばし、うつ伏せた。
「どうした?」
「うーん......、黙ってたけど、みほりん、しばらく学校来てなかったんだよね。たかっちがいなくなったの見たって言い張ってて」
陽向としてはみほりんという少女を元気づけるつもりで誘いに乗ったようだった。
「なんだ、それで絶対行きたいって言い出したのか」
「うん。でもさぁ、みほりん、ほんと変だったんだって。たかっちが目の前で消えたってずっと言ってた。目の前で影になっちゃったって」
テレビを見ていた晶良が振り返る。
「それ、前言ってた幽霊の影のことですか」
「ううん、あれとは別。みほりんがたかっちだって言い張ってたのは、床の汚れなんだよね」
陽向が自分の携帯電話を取り出して、画像を晶良に見せる。
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「これ。どう見たって汚れでしょ?」
そこに写っていたのは、高級クラブで見た例の焦げ跡と同じものだった。
翌日の夕方、いつものように三人でくつろいでいると、晶良が珍しくテレビを消して携帯を睨んでいる。二枚の画像を見比べ、さっきから「んー」と唸っている。あれから、晶良は陽向に詳しく話を聞いて画像を送ってもらったのだ。
「これ、いつから現れたんですか?」
陽向は思い出すように人差し指を顎に当てる。
「うーん、確か七月に入ったころかなぁ」
「そのころ、失踪した子はいますか?」
陽向がキョトンとする。
「失踪? 家出した子のこと?」
「はい、そういう子っていましたか?」
「うん。うちのクラスはたかっちが家出しちゃったし、学年が下のクラスにも二人くらいかなぁ」
「結構多いですね」
「でもね、学校に来なくなった子の方が多いよ」
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「来なくなった......。不登校ですか?」
「そうなのかな。でもしばらくしたら来るけどね。一番それが多かったのは七月に入る前かな」
陽仁に晶良が別の画像を見せてくれた。それは見たことのないものだった。
「なんだ、これ?」
「柘榴姉さんに送ってもらった焦げ跡です。わかっているだけで数件、潜在的にはもっとあるだろうって言ってました」
「でもそれだけなんだろ?」
「姉さんが言うには、貧富とかは関係ないそうで、どっちかというとなんの問題もなさそうな人がこういう焦げ跡を残して失踪しているらしいんです」
バスタブのなかの人形、床の人形、はては布団の人形もある。状況は様々だが一様に失踪という事実がつきまとう。
「ふーん......、陽向の友達も問題がなかったのに家出したのか?」
陽向が茶請けのクッキーを食べながら、頷いた。
「うん。たかっち、お友達クラブに行き始めてからはすごく元気だった。それまでは結構悩み事あったみたい」
「お友達クラブか......」
「他のみんなも誘われたけど、みほりんだけがたかっちと一緒にお友達クラブに遊びに行った
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んだ。楽しかったらしいよ。それで今度のバーベキュー、みんなで行こうってなったんだ」
陽仁はお友達クラブに行きだしてから元気になったのに、その少女が家出したというところが引っかかった。
「お友達クラブで悩み事相談すると、年上の友達が色々アドバイスしてくれるんだってさ。アドバイスとかしなくても色々と話を聞いてくれるし、みんな優しいって言ってた」
「お友達って一体どういう由来なんだ、変なクラブ名だけど......。社会人クラブみたいなもんか?」
「友達百人できるかなって言ってた」
かなり昔のCMソングだ。
「百人もできないだろ......」
呆れ果てて陽仁が呟いた。それなのに陽向があっけらかんと言ってのける。
「百人連れてきたら、お友達のリーダーになれるって言ってた。だからみほりん必死でみんなに声かけてるみたい」
「リーダー?」
そこで陽仁は疑問を抱いた。
「待てよ。まさか金とか絡んでないだろうな」
それに対して陽向も口ごもる。
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「わかんない......」
「今度行くバーベキューは参加費とかいくらなんだ」
「それは、リーダーが持つんだって言ってた。参加するあたしたちは払わなくていいって」
「はぁ? 何人参加するんだ」
それに対して陽向が首を傾げる。
「みほりん、それは言ってなかったな。たくさん来るって言ってた」
これは何がなんでも一緒に行って確かめないと、陽向がやばいことになると陽仁は思った。
晶良は相変わらず携帯に送られてきた画像をじっと眺めていたが、突然、晶良が声を上げる。
「これ面白いですよ」
「なんだ?」
「なになに?」
陽仁と陽向が晶良の携帯を覗き込んだ。
「ここです」
「ん? ここって何が?」
陽仁は目を細めて小さな画面を睨んだ。
「ここと、それからこの画像のここ」
「何が面白いんだ......?」
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わけがわからなくて、陽仁が尋ねた。
それなのに陽向にはわかったようだ。
「あ、ほんとだ。これ、面白いね。間違い探しの逆みたい」
「なんだよ、間違い探しの逆って」
「よく見てよ、アニキ」
携帯を受け取り、陽仁は陽向が説明する場所を眺める。
「ここよく見てよ。何が見える?」
「本の山だな。こっちは本棚」
「その本のなかに同じ本があるんだよ」
「同じ本......?」
晶良が陽向の代わりに答える。
「釈卓也の本ですよ」
「うん、学校で配られた本がある」
晶良が神妙に呟いた。
「他の失踪者の部屋にも釈卓也の本があるかもしれないです。早速柘榴姉さんに聞いてみます」
陽仁はもう一度画面を見たが、やっぱりよくわからなかった。ごちゃごちゃと本が並べて置かれているようにしか見えない。
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「それにしてもよくわかったなぁ」
「だって白地に赤だもん。すごく目立つよ。しかもさ、すごい大きいロゴでコミュニケーションって書いてあるんだもん」
「そうなんだ」
「晶良ちゃんには見せたよ。この間、見たいって言ったから」
「どんな本なんだ?」
「えーとね、とにかく相手のストレスを受け流すようにするとか、魅力を育てるとか、自分の本当の願望を見つけようとか」
陽仁は気の抜けた感嘆の声を漏らす。
「へぇ。そんなんでコミュニケーションって円滑になるものなのか?」
「みほりんとか他の子はこれ読んですごく気が楽になったって言ってた」
「お前は?」
陽仁は気になって陽向を見た。
陽向が苦笑いを浮かべる。
「それがさぁ、みんなが言うようには思えなくて。これ読んでると、イラッとするんだよね」
「感想文書いたんだろ?」
「うん。でも適当に書いた」
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「どこらへんがイラッとしたんだよ」
それは興味があった。釈の本はベストセラーで、多くの読者が感銘を受けたと宣伝している。その本に対して苛つくというのはどういうわけなのか知りたかった。
「絶対アニキも苛つくって。なんかさ、都合がいいの。モヤッとするんだよね、言葉にしにくいんだけど......」
「机上の空論ってやつか?」
そういう啓蒙書ならたくさんあるだろう。要するに理想論だ。
「ううん、実践的ではあるんだけど、この本に書いてあることしたら反対にストレス溜まっちゃう。あたしはしたくない。それなのに、どうしてみんながいいっていうかわかんないんだ」
「でもセミナーとか、やってるじゃないか」
「うん、本にね、より高次元の精神世界へ踏み込むには、あなたの人間関係を見つめ直すきっかけが必要です。そのためにセミナーではその方法をご教授いたしますって書いてあった」
「セミナーがバカ高いんだろ。それで儲けてるんじゃないのか」
「一回五百円でいいんだってさ。お金じゃないって書いてあった。コミュニケーションに必要なのは自分の魅力を磨くことだって書いてあった。そのお手伝いをします、だってさ」
たったの五百円と聞いて、さすがの陽仁も呆れ返った。会場代のことを考えると大赤字だ。それは商売をする人間の考えることじゃない。さながらボランティアだ。
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「それで、みんなそのセミナーに行ったのか?」
「ううん。みんな行きたいねって言ったけど、本当に行ったのはみほりんだけ。セミナー、すごく良かったって言ってた」
「ま、値段的に中学生には優しい金額だよな」
そう言って陽仁は茶をすすった。
陽向がクッキーを摘みながら、携帯で話をしている晶良を眺める。
「明後日のバーベキュー、晶良ちゃん来れるかな......? 柘榴さんの仕事が入らないかな?」
陽仁も晶良を見やった。どうやら晶良は現場を見せてもらえることに成功したようだ。ありがとうございますと言って電話を切った。
「晶良、明後日バーベキューだけど来れるかって陽向が心配してる」
すると、晶良が明るく答える。
「大丈夫ですよ、陽向さん、楽しみにしてるじゃないですか。あ、陽仁さん、バーベキューの次の日、柘榴姉さんの代理の方が来て現場を案内してくれるそうです」
「代理?」
「佐さえきこうき伯光輝刑事。佐伯の人間です」
「この二、三日はバタバタするな」
陽仁は腕を上に伸ばして背伸びをした。
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第四章
朝からウキウキしている陽向が、部屋で着ていく服をまだ選んでいる。といっても少ない服をコーディネートするのに迷っているのだ。上は決まったらしいが下をホットパンツにするかカプリにするかジーンズにするかスカートにするか迷っているらしい。
陽仁はズボンかスカートのどっちかでいいだろと思うけれど、女の子はそうもいかないらしい。
「道具とか材料は持っていかなくていいのか?」
昨晩、陽仁が陽向に尋ねると、
「手ぶらでいいって言われた」
と返してきた。
一体何人集まるかわからないが、友達百人できるかなとかいう言葉がモットーならかなりの人数が参加することになる。百人も来ないと考えているから陽仁もこんなことを笑って聞き流せるのだ。
集合場所に十一時。まだ九時だが、電車に十時に乗っておかないとぎりぎりになる。
晶良はまだ、貰った画像に見入っていて熱心に間違い探しをしている。
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陽仁は外を眺めた。
七月も中旬を過ぎて、夏真っ盛りだ。外に出れば盛んにセミが鳴いている。ジリジリと焼けるような日差しの下でバーベキューを昼間からするのは、正直に言うと面倒くさい。それも知らない連中とだからなおさらだ。
陽向は友達も一緒なので楽しみでならないらしい。昨日からバーベキューの話で持ちきりだった。
晶良というと、バーベキューに関してはなんの感慨もないらしく、柘榴からもらった画像に執心している。
朝早く、自分たちの食事を陽向と作り、あれから毎日、陽仁は忘れずにおにぎりとおかずを庭にお供えしている。もちろん無むみょう名が残した穴のある場所にだ。不思議なことに食い散らかされたあともなく、作った弁当はいつも跡形もなく消え去っている。
(あの赤いやつ、毎日食ってんだろうな)
妖かしがどこまで約束を守るのかわからないが、何もしないよりましだ。
そろそろ時間になり、カプリ姿の陽向が部屋から出てきた。
陽仁と晶良はいつもと同じ服装だ。晶良は夏場でも長袖着用だが、陽仁は暑さにまたもや負けて今日は半袖シャツを用意した。安売りのシャツなので変な文字がプリントされているためか、さすがに陽向から非難された。
123
出かける間際まで色々と文句を言われ続ける。
「アイラブトーキョーとかかっこ悪いから着ないで」
「これ、二着で五百円だったんだぜ」
「でも着ないで」
これのどこが悪いのかさっぱりわからない。半袖で作りもしっかりしている。
「半径二メートルまで近付かないでね」
とまで言われるとアニキとして情けない気持ちで一杯になる。
夏休みで巨大娯楽施設方面に行く電車に乗るので、晶良が大丈夫か心配になって晶良の様子を窺った。心ここにあらずと言った感じでぼんやりしているところを見ると、すべてのスイッチを切っているようだ。
それをいいことに陽向が晶良の手を握って道を歩いている。陽向がはしゃいで色々と晶良に話しかけているが、きっと晶良は聞いてない。
(晶良と接触できるのってこういうときだけだもんなぁ)
陽向の思いが空回りしているのを見ると、アニキとしてもの悲しい。晶良がもう少しそういう方面に鋭いほうだったら、きっと陽向を期待させたりはしないだろう。
いつもの癖で、陽仁と晶良は仕事道具の入ったバッグを持ってきている。今日くらいは手ぶらでも大丈夫だが、なんだか心がざわついて仕方ないのだ。
124
何事もなく会場についてみると人だかりができていた。
「まさかこれ全員か?」
陽仁が呆れ返っていると、陽向が自分の友達を見つけて走っていってしまった。
晶良は相変わらずぼんやりとあらぬところを見つめている。
「おい、会場ついたぞ。晶良、聞いてるか?」
「そうですか......」
晶良がほんわかした顔つきで周りを見てから返事をした。
「なんか変わったこととかないか?」
「さぁ、意識を集中させてないからわからないです」
(そりゃそうか)
周りにはざっと見積もってもひとクラスはありそうな少年少女のなかに大学生や高校生も混じっている。こうしてみるとさほど危ない集まりには見えない。
ちょうど十一時になったころ、大学生らしき青年が呼びかけ始めた。
「今日はお友達クラブに来てくれてありがと! 特設バーベキュー会場を準備してまーす! そこまで歩いていくのでついてきてください!」
125
返事をするものやざわついて話を聞かないものまで様々だったが、引率の大学生の後ろをみんな大人しく付いていく。
「アニキ」
今まで随分兄のことを無視してきた陽向が寄ってきた。ボブカットの可愛らしい少女を連れている。
「この子がみほりん。こっちがあたしのアニキ。それと晶良ちゃん」
「こんにちはー。美穂です。はじめまして。この人が晶良ちゃん? へぇ、へぇー」
(この子も晶良の外見に騙されてるな)
「よろしく」
陽仁がニッコリ笑って言った。晶良もほのぼのとした顔つきで、挨拶をする。
「こんにちはー」
「じゃあね」
(なんだよ、それだけか)
陽仁が呆れて陽向を目で追う。少女たちは他の仲間と合流するとこちらを見てくすくす笑っているようだ。時々奇声も上げている。
(何を笑ってるんだか......)
若い娘の考えていることはわからないと、陽仁は肩をすくめた。
126
十分以上歩いてやっとバーベキュー会場についた。野外会場には日よけのテントや、十台ほどの本格的なバーベキュー機器やテーブルと椅子が置かれている。さながらお祭りみたいな雰囲気だ。
いくつもある日除けテントにはすでに大学生が待機していて、屋台で見かける氷を入れてペットボトルを冷やすステンレス什じゅうき器まである。陽仁は晶良を連れてそのなかに酒が入ってないか調べに行った。誤って陽向が酒類を飲んでしまわないためだ。しかし、なかにはごくありふれた清涼飲料水とお茶しかなかった。
「飲み物持っていかれますか?」
大学生くらいの女性が声をかけてきた。清楚な感じと可愛らしい笑顔で、薄いオレンジ色のシャツを着て、エプロンを掛け、胸元には瓢ひょうたん箪型のブローチをしている。
「あ、じゃあ......」
そう言って陽仁はお茶を二本もらった。
「ほら、日陰に行って涼もうぜ」
陽仁は晶良と日よけの下に行き、周りを眺める。
ジュースを配っているのはみんな大学生の男女。バーベキューを準備しているのも同じくらいの年の男性ばかりだ。
(このなかにリーダーがいるのかな......)
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肉を焼き始めた音や匂いがし始めて、もうもうと煙が上がった。みんな紙皿を持ち、肉が焼けるのを待っている。
「おふたりとも座ってください。お肉取ってきましょうか?」
にこやかに男性が世話を焼いてくる。こちらも違う色のシャツにエプロン。やっぱり瓢ひょうたん箪型のブローチをしている。
そして、気持ち悪いくらいみんな親切だ。
これがお友達クラブなのか......? と陽仁は訝しく思う。誰も彼もが笑顔で楽しそうにしているのが気に食わないわけではない。晶良も同じように思っているか、みんな本当に親切なのか聞いてみようと思い、晶良の肩を揺らした。
「晶良、お前、ここの連中見てどう思う?」
もしかしたら影でこっそりと少年少女に薬をさばいたり、何か犯罪めいたことに引きずり込もうという裏があるかもしれない。
晶良が陽仁を見てから周りを眺める。少し顔つきがまともになった。
「んー......、そうですね。すごく綺麗です」
と言ってからハッとした顔つきになった。
「そう、すごく綺麗ですよ。あの事務所みたいに」
「やっぱりそうなのか......。陽向たちはどうだ?」
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「子供たちは普通。人並みに曇ってますよ」
「それなのに、奴ら、みんな綺麗なのか」
どういうことなのか陽仁にはさっぱりわからない。ただ思いつくのはこの会場にもあの変なものがあるのかもしれないということだけだ。
「なんだろう......。そうだ、なんだか空虚です。なぜなのかはわからないですけど、普通幸せな人間はそれなりに欲を持ってます」
「幸せなのにか?」
「欲のない人間なんていませんよ。悪いほうに行くか良いほうに行くかはその人次第ですけど、ここにいる方たちにはそれがないんです。無欲とも違うし......なんだろう?」
晶良がそんなことを言うのは珍しい。晶良にもわからないことがあるのだと思った。
「陽向たちはどこだ......?」
陽仁は急に陽向が心配になった。こんな得体の知れない集団と一緒にしておけない気がした。親切だろうがどんなだろうが、晶良にこんなことを言わせる連中だ。まともなわけがない。
陽向はバーベキュー機器の周りに寄り集まって美味しそうに肉を頬張っている。そしてそこで肉を焼いている好青年と話をしていた。
陽仁は意識がはっきりしてきた晶良を連れて、近寄っていった。
「陽向」
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声をかけると、笑顔で陽向が振り向いた。
「アニキ」
割り箸を持った手を振っている。近くには陽向の友達もいる。晶良が近づくと少女たちは照れたようににやけて、コソコソと小声で耳打ちし始めた。
美穂も手を振って陽仁たちを呼んでいる。
側に寄っていくとトングを持った青年がにこやかに挨拶してきた。
「今日は来てくれてありがとうございます。陽向さんの保護者の方だと聞きました。僕は相さがら良です。どうぞよろしくお願いします」
「どうも、諏訪です」
青年は茶色に髪を染めてはいるが、ガラが悪いわけではない。むしろ普通すぎるくらいだ。青いシャツにエプロン、そして瓢ひょうたん箪型のブローチを付けている。
(この趣味の悪いブローチ、お友達クラブのトレードマークかなんかか?)
「肉、焼けてますからどうぞ食べてください」
と、相良が言い、横から美穂が割り箸と皿を手渡した。
晶良が自分の皿にどんどん肉を盛っていき、むしゃむしゃと食べ始める。
「あ、あたしのもどうぞ!」
なぜか、陽向の友達も晶良の皿に自分の肉をどんどん積んでいく。
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「ありがとうございます」
晶良がニッコリと微笑むと、少女たちがキャッキャッとはしゃいだ。
「みんな無邪気ですね」
(いや、みんなお前に夢中なんだよ)
陽仁は苦笑いを浮かべた。
そばに立っていた美穂が陽仁に話しかけてくる。
「相良さんは今日バーベキューを主催したリーダーなんですよー」
「あ、そうなんですか。陽向がお世話になってます」
「いえいえ、全然気にしないでください。僕らの趣旨はお友達を作ることなんですから」
陽向が得意気に口を挟む。
「そうなんだよ、みほりんは相良さんと友達になって、悩みを打ち明けたら気持ちが軽くなったんだってさ」
「ふーん」
相良は悪気など一切ない顔で微笑んでいる。
「相良さん、お肉お肉!」
少女たちが焦げ始めた肉を指して騒いだ。それを相良が笑いながら相手をする。
「あ、ほんとだね」
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陽仁は晶良にこっそりと尋ねた。
「どうだ? 晶良」
「さっきの人たちよりも何もないです。そのかわり吸い込むほうはものすごいです」
美穂が陽向たちと話をしている。
「だからさ、今度キャンプに行こうってば。みんなも来るし。お泊まり会、楽しいよ」
「みほりん、行ったの?」
「二回行った」
「どこであるの? 遠いと行けない」
「山梨。東京駅からバスがそこまで連れていってくれるよ」
「バスが来るの!?」
「そう、お泊まり会だけど、二百人くらいは来るんだ」
「えー!」
話している内容は無邪気だが、二百人は異常だ。何かのイベントとしか考えられない。
「金がかかるんじゃないのかな?」
陽仁は少女たちの会話に口を挟んだ。すると、相良が美穂の代わりに答える。
「かかりませんよ。そこで、みんな自分の悩み相談なんかするだけです。勉強も教えますよ、ちょうど夏休みだし、ちょっとした勉強合宿ですね」
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「そこでも相良さんが主催するんですか」
相良が少し黙った後に言う。
「僕たちの上に、五人ほどリーダーがいるんです。その方たちが主催です」
「じゃあ、施設とかの負担はその人たちが?」
「そうですよ」
「今日の催しも大変だったでしょう?」
陽仁が何気ないふうを装って聞いてみた。
「僕たち、お友達クラブが大好きなんです。だからバイトも楽しいですよ」
「へぇ、バイトして費用を出してくれてるんですね。じゃあ、その合宿のリーダーはもっと大変だ」
「そうですね。でもお友達クラブのためだから」
(お友達クラブのためね......)
白々しい印象だった。それに合宿の主催者を言うのを少しためらったのも気になる。それなのに陽向が無邪気に答えているのが聞こえた。
「行きたーい!」
陽仁は目をむいた。
(そこで行きたいって言うのか、お前は!)
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「じゃあ、参加決まりだねー」
「陽向、ちょっと来い」
陽向が怪訝そうな顔をして陽仁を見る。
少女たちから距離を置いて、陽仁は陽向に言った。
「俺は許さない。行くのは駄目だ」
「なんで」
陽向が明らかにむくれて言った。
「理由はどうであれ駄目だ」
「なんだよ、アニキのケチ。あたし絶対行くもん」
「絶対駄目だ。許さない」
「なんでよ!」
陽向が珍しく声を荒げた。興奮しているのか眦まなじりが赤くなっている。
(陽向がここまで反抗するの、初めてだな)
内心、陽仁は焦りながらも甘やかせないため、陽向を守りたい一心で言い聞かせた。
いつの間にか隣に晶良が来ていた。
「いいか、晶良が変だって言ってるような連中と一緒にキャンプに行くのは駄目だ」
陽向が目を大きく見開いて晶良を見やった。
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「晶良ちゃんも駄目って言ったの? みんないい人なのに、変だって言ったの?」
晶良が困ったように弁明する。
「さっきから見てて思い出したんですけど、僕、釈は空っぽだって言ったことがあったでしょう? あの主催者の方、釈卓也に似てるんです。陽向さんも釈の書いた本は空々しいって言ってたでしょう?」
すると、反抗的にしかめていた顔を緩めて、陽向がかすかに頷いた。
「言った......」
「危険というより、心配なんですよ。普通、みんな良かれ悪しかれ欲を持ってます。でもここの大学生の人たちは何も持ってないし、さっきの相良さんは釈みたいに空に近かった。それどころかあなた方の欲まで吸っています。それなのに自我という欲が見えてこないんですよ」
「でも、いい人だよ? 欲を吸ってくれるなんていい人じゃん」
言い負かされているのがわかっているのか、陽向が一生懸命に晶良に言い募った。
「自我がないってどういうことかわかりますか?」
「わかんない......」
「無欲とは違うんです。人間から欲を完全になくすってことは存在しないのと同じなんです。そんな人と一緒にいられますか?」
「でもいるよ? ほら」
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晶良が困ったような顔をした。
「説明が悪かったですね。はっきり言いますね。自我がない、存在しないっていうのは人じゃないってことです。あの人はもう人じゃないんです」
「人じゃないの......?」
晶良がはっきりと告げた。
「ええ、そうです」
そうなると陽向も観念したのか、口ごもる。
「行くって言っちゃった......断れない」
「俺が断るよ」
陽仁が陽向に言い聞かせた。すると晶良がそれを止めて笑う。
「僕は行きます。そのキャンプに興味があるんで」
「え!?」
陽仁はあからさまにいやな顔をした。晶良が人間じゃないと言い切った奴らと同じ施設に泊まるということは、化物と一緒に檻のなかに閉じ込められるようなものだ。
「大丈夫、僕がついてますから。それにリーダーより上の人たちを見てみたいんです」
陽仁はため息をつく。こうなった晶良を止められる人間なんか見たことがない。彼の姉たちでも無理なのを知っている。晶良はこう見えて頑固なのだ。
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「それでキャンプはいつなんですか? 陽向さん」
「八月一日から二日間だよ」
「再来週か」
「一緒に行きましょうね、陽仁さん」
「やっぱり俺もかよ......」
晶良の言葉にがっくり肩を落とした。晶良は陽仁を連れてスタスタと相良のもとに戻ると開口一番に言った。
「陽向さんは行けませんけど、僕たちは興味あります。参加します」
相良は顔色ひとつ変えず、微笑んだ。
「わかりました。陽向さん、今度は来てくださいね」
「......はい」
すると周りにいた少女や美穂が非難する。
「えー、来るのやめたの!? なんでー」
陽仁が代わりに答える。
「陽向が行っても大丈夫かどうか確かめてからじゃないとね」
それを聞いて少女たちの顔つきが、同情するような表情に一変して陽向に声をかけた。
「陽向んち厳しいね」
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陽向は曖昧に笑って頷いた。
翌日の午前中、零れいか課の刑事、佐伯光輝が晶良のペントハウスを訪れた。
玄関に現れた刑事は三十代半ばで無精髭を生やしている。くたびれた黒いスーツ姿で襟元を緩め、ネクタイを外し、スーツの袖を捲り上げどこかだらしなく着崩していて、男寡やもめ婦をそのまま体現したような男だった。
「どーも。佐伯光輝です」
「上がってお茶でも」
陽仁がそう言ってスリッパを出すと、光輝が手を振って言った。
「いやぁ、すぐ出かけませんか。結構回るんで」
「じゃあ、そこの椅子にかけて待っててください。準備してきます」
刑事に見えない光輝にそう言って、陽仁は急いで晶良に準備させて玄関に出た。
「晶良さま、お久しぶりです」
光輝が軽く頭を下げる。
「光輝さん、久しぶりです。でもいい加減、さまって呼ぶのやめてください」
「そりゃ、命令ですかね?」
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晶良がニコニコしながら答える。
「命令です」
「しょうがない総領さんだ」
「総領じゃありません」
「はははは」
光輝が乾いた笑いを漏らした。陽仁は靴を履きながら、佐伯の人はみんなどこか変わってるなと思う。岡山で世話をしてくれた佐伯刑事はやたら気合が入っている人物だったし、今度は無気力ときている。
「下に車停めてますから」
三人はペントハウスを出て、光輝の車に乗り込んだ。脂やに臭い。吸殻入れからタバコの吸殻が溢れている。
陽仁がそれを眺めているのを見た光輝が言った。
「何回禁煙しても失敗するんすよ。あ、タバコ吸っていいすか」
あえて禁煙できない理由について考えないようにして、返事をする。
「どうぞ」
「どーも」
ヨレヨレの黒いジャケットのポケットから潰れたタバコの箱を取り出して、少し折れたタバ
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コを口に咥くわえると百円ライターで火をつけた。そしてそのままエンジンを入れて車を発進させる。
「今から向かうところはどこですか?」
「都内十二ヶ所くらいですよ。疲れたら言ってください」
「遠慮なく言います。それで、どこも焦げ跡があった場所ですね」
「無論ですよ。課長が認めた厳選したとこばっかりです」
「柘榴姉さんはサイコメトリーをしても何も見えなかったって言ってましたけど、結局全員の家から釈卓也の本は見つかったんですか?」
後部座席に座っている晶良をフロントミラー越しに見て、面白がるように光輝が笑った。
「ドンピシャでしたよ。やっぱ、総領さんはすごいなぁ。課長も驚いてましたよ」
「総領じゃないです。やっぱりあったんですね。釈卓也も調べてるんですか?」
「調べ始めたら、面白いですよ。釈の合宿に行って帰ってこないって訴えがいくつもあって。掘り出したらなんか出てくるでしょうね、総領さん」
「晶良です」
また光輝が笑う。どうも本当に面白がっているようだ。
車の運転は荒くて、カーブするたびに体がかしいだ。車の発進も停車も急だ。ガクガクと体が揺れて気持ち悪くなる。
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晶良は慣れているのか平気なのかぼうっと窓から外を眺めている。おもむろに車はマンションの前に止まった。
「着きましたよ」
三人は車から降りて、高級マンションを見上げた。都内の一等地に建つマンションだから、億単位はするだろう。
「ここ......?」
晶良の言葉に光輝が返事をする。口に咥えている短くなったタバコをペッと道路に吐き捨てた。
(うわ)
陽仁はハンカチをポケットから出してそれを拾うと、さっさとマンションに入っていった二人を追った。
部屋は五階、四LDKだ。
「どこに焦げ跡があったんですか?」
「風呂場ですね」
三人で風呂場に行って見てみる。言われたとおり、バスタブのなかに焦げ跡があった。
「お湯は張ってあったんですか?」
晶良の質問に、
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「そうです。けど焦げてた」
晶良はつぶさにすべての部屋を見ていった。けれど、釈の本以外めぼしいものは見つからない。晶良が釈の本を手にとって捲るとサインがあった。
「この人、釈さんのファンだったんですね」
「とりあえず全部見ましたけど、全員サイン入りの本、持ってましたよ」
「そうですか......」
「じゃ、次ですね」
そんな調子で二十三区内を巡っているうちに空模様が怪しくなってきた。最後の一軒を回る前に、雨のなか、コンビニエンスストアに車を停めて飲み物を買った。
光輝は全部吸い終わった煙草の箱を車のなかに放ると、タバコを買いに行った。晶良もついて車を出ると、助手席側に回って窓から声をかける。
「陽仁さんは買わないんですか? 買ってきましょうか」
「じゃあ、お茶」
晶良が陽仁から金を受け取り、ウキウキした様子でコンビニに入っていく。晶良は陽仁たちと出会うまでコンビニすら知らなかったのだ。いまだにコンビニに来ると楽しそうに棚を見て回っては食べ物を大量に買ってくる。
先に光輝が戻ってきた。バタンと音を立てて車のドアを閉めて席に座る。後ろに撫でつけた
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黒髪が雨に濡れている。
「総領さん、はしゃいじゃって。まるで子供っすね」
陽仁は車内のゴミを拾ってダッシュボードに放り込んでいた。
「ああ、掃除っすか、気ぃ使ってもらってどーも」
「いや、こういう質たちなんで」
すると、光輝が笑った。何度も聞いた乾いた笑いだ。
「あんた苦労性だ。でも悪いやつじゃない」
「なんでわかるんですか」
光輝が前を向いた。フロントガラスは雨に濡れて雨だれが伝って落ちている。向こう側が雨だれのせいではっきりと見えない。
「俺の能力。なんか憑いてたりすると顔が歪んで見えるの」
顔が歪んで見える? と不思議そうにしていると、光輝が続けた。指をフロントガラスに向ける。
「ほら、ここ見て。向こうが歪んでるだろ。人の顔も歪んでる。こんなふうに見えるんだよ」
「じゃあ、今日みたいな日はわかりにくいですね」
陽仁が言う。
「ははは。あんたにとってはそうだな。でも俺にはわかるんだよ、雨が降ってようと降ってま
143
いと歪んで見える」
「じゃあ、憑かれてない人と区別がつかないんじゃないですか?」
陽仁にとってはそれは素朴な疑問だった。
「憑かれてなかったら雨だれなんて関係ない。窓越しでも歪んでないし、まともに見える。そういうことなんだよ」
そういう光輝の目はフロントガラスを通り越して何かを見ているように遠い目つきだった。
「お待たせしました。はい、陽仁さん、お茶」
濃いお茶を出されて陽仁は受け取る。
「すごいなぁ、総領さんに買い物させるんだ」
「総領じゃないです。陽仁さんは友達ですから」
そう言うと、買ってきたものを袋から出して晶良は早速食べ始めた。
「最後は物件じゃないんですよね。押収品なんです。まぁ、いずれ返さないといけないんで今のうちに見といてください」
そう言って光輝は二十三区内にある零れいか課の施設に車を向けた。
外から見るとなんの変哲もない施設だ。厳重に鉄柵で門が閉められている以外は。
光輝は車を門の前に止めて外に出て、門に設置してあるインターホンに呼びかけると、鉄柵が自動的に開いた。
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再び車に乗り込み、施設内の駐車場に停める。
三人は降りて、施設の外にあるシャッターの前に立った。
「ブツがでかいんで、ここにしか置けないんすよね」
「でかい?」
光輝がシャッターをガラガラと押し上げた。なかには高級そうな黒い車があった。
「車......?」
「誰の車だと思いますか?」
ニヤニヤしながら光輝が言った。
「誰ですか?」
晶良が尋ねると、光輝が答える。
「鳥羽ですよ」
陽仁は息を呑む。あの失踪した鳥羽の車なのか。
「息子から失踪届が出たんで、念の為に行って家中見てから車を調べたんすよ」
「車を? なぜですか」
「車で出かけると言って家を出た鳥羽が、車にも乗らずにいなくなったって言ってるんすよ。そんで、課長が車を調べろって言いましてね」
光輝が運転席側の扉を開いた。
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陽仁もなかを覗いたがどこか違和感がある。その違和感にはすぐに気付いた。シートベルトがかかっているのだ。思わず声を上げる。
「お、さすが総領さんのマネージャーさんだな」
「晶良です。確かに運転席に焦げ跡がありますね」
「黒いから見逃しがちですがね」
晶良が腑に落ちたように呟く。
「みんな失踪したんじゃない......。消えたんですね」
「で、調べたら出てきましたよ、釈の本。サイン入り」
陽仁はもう一度つばを飲み込んだ。
(――で、なんでこの人うちにいるんだ?)
陽仁は夕飯の準備を終えて座卓に料理を並べながら、陽向の横にあぐらをかいている光輝を見た。陽向は緊張しながらも気を遣って話しかけている。
晶良は晶良でマイペースにテレビを付けて、陽向の話とテレビと交互に見ては適当に相槌を打っている始末だ。
(晶良のせいだった......)
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最後の料理をどんと座卓の真ん中に置く。
『光輝さん、ご飯どうですか?』
総領の夕飯の誘いを断れるはずもなく、光輝も居心地悪そうに生活感たっぷりの畳の壇の上にいる。なんだかこういう家族の和気藹々とした雰囲気が苦手のようだ。
「へぇ、マネージャーさんは料理もできるんだ。おふくろみてぇだな」
それに対して陽向がここぞというふうに兄への不満を漏らしている。
「そうなんですよー。買い物もチラシを見比べて十円でも安いところにしろってうるさいんです」
「こういう家庭料理久しぶりだわ」
目の前に並べられた和食の数々を光輝は眺めている。
「いつでも嫁さんになれるな」
「はははは」
今度は陽仁が乾いた笑い声を上げた。
「彼女さんも彼氏がこんだけ料理できたら嬉しいだろうねぇ」
「彼女いませんから、俺」
座卓の側に炊飯器を持ってきて陽仁が不機嫌そうに答えた。
晶良がニコニコしながら光輝に言う。
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「陽仁さんはお料理だけじゃなくてなんでもできるんですよ」
自慢気に話してくれるが、陽仁はあまり嬉しくない。できれば、こういう手料理は本当に彼女に食べてほしいけれど、まだ子供の陽向をおいて結婚を考えることもできないし、陽向が一人でなんでもできるまであと数年はかかる。それまでは一人で十分だった。
「マジでアニキってお母さんみたいに、あれしろこれしろとか言ってくるんですよ」
味噌汁をみんなに手渡しながら陽向が口を尖らせる。
「お前が子供だからだろ」
陽仁はご飯をよそって、光輝に手渡す。
「どーも」
ご飯の準備ができると、ようやく陽向と晶良が箸を手に持って口を揃えて「いただきます」と言って食べ始めた。光輝は煮物を箸に取って黙々と口に運んでいる。
「光輝さんは柘榴さんと働いてるんですよね? やっぱり特殊能力とかあるんですか?」
陽向が子供らしい図々しい好奇心をむき出しにして光輝に尋ねた。
「そうだなー、憑かれた人間を見分けられるとかだな」
光輝は言われ慣れしているのか気にしてないようで、皿に盛られた料理を次々に食べていく。
「へぇ、じゃあ、あたしになんか憑いてますか!?」
光輝がちらりと陽向を見やる。
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「君には何もついてないよ。ふつーの中学生」
陽仁は陽向が余計なことを言いませんように、と祈りながら黙って夕飯を食べていたが、やっぱり妹は余計なことを言った。
「うちのアニキはどうですか?」
「ふつー。顔と同じ」
その言葉に陽向が失礼なほど笑い転げている。
(こいつ......、あとで締める)
「じゃあじゃあ、晶良ちゃんは!?」
陽仁は妹の言葉に呆れる。まさか主人にあなた憑いてますよとか言わせたいのか。
「総領さんは後光が見えますね。眩しくて顔が見えない」
光輝の言葉に思わずご飯が喉に詰まった。
「グッ」
陽向が茶を手に取る陽仁を怪訝そうに見る。
晶良が口いっぱいに頬張りながら言い返す。
「晶良です。いい加減総領って呼ばないでください」
(後光については触れないのかよ......)
陽仁は茶を飲みながら喉に詰まったおかずを流し込んだ。
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「後光って、天使みたいなアレですか?」
すると、光輝が箸を休めて、少し上を見て答えた。
「あー......、仏さんの後光だな」
陽向はその言葉にキョトンとした。陽仁が代わりに尋ねる。
「要するに、あれですか? 仏様の光輪みたいなのってことですか」
光輝が箸を振って肯定する。
「そーそー。その光輪ね」
陽向が目を大きくして晶良を見つめる。
「晶良ちゃんには仏様が憑いてるの?」
晶良が苦笑する。
「そういうのが見える人はいますね。でも仏様は人間に憑いたりしないですから」
光輝がおもむろに陽仁に言った。
「マネージャーさん、ビールあるかな? やっぱ、こういう和食にはビールだよな」
(ずっ、図々しい......)
陽仁も苦笑いを浮かべて断る。
「ありません」
光輝はわざとそういうことを言ったようで、ニヤニヤしている。
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「ないのかぁ、残念だなぁ」
わざとらしく首を振りながら言った。
「あ、あたし買ってきましょうか!」
陽向が余計な親切心を出して光輝に言った。陽仁はすかさず陽向に注意する。
「光輝さんは車の運転があるんだから飲めないの」
「あっ、そうか」
陽向が失敗したとでも言いたそうな変な笑みを浮かべた。
「こういう妹持ったら、兄ちゃんはなかなか彼女作れないなぁ?」
からかっているのがわかるだけに陽仁はムスッとして答える。
「いや、今は忙しいだけですから」
「彼女、作ったほうがいいんじゃねぇかなぁ? 男ばっかりだとむさ苦しいでしょ」
すると陽向がムキになって言い返す。
「晶良ちゃんはむさ苦しくないですよー!」
「あーそうだねー」
適当に光輝が受け流している。
(余計なお世話だよ......)
陽仁は光輝がわざとふざけているように感じながら、食べ終わった茶碗を置いた。それから
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おかわりと差し出された晶良の丼を受け取る。
丼に山盛りご飯をよそうと、晶良に手渡した。
「それで、光輝さんは釈のこと何かわかってるんですか?」
晶良がもぐもぐと咀嚼しながら聞いた。
「釈ですか」
陽仁も返事に注意を向ける。
「釈卓也がどうかしたの?」
陽向が不思議そうな顔をした。
光輝は陽向のことを無視して答える。
「今わかってるのは、公表してるプロフが全部虚偽だってことだけっすかね」
「えー」
陽向が声を上げる。
「みんな釈卓也が東大出てるって信じてるのに。みほりんなんかすごい自慢してたし」
光輝がわざとらしい笑みを浮かべて陽向に言い聞かせる。
「あれは全部ウソなんですよー」
「なぁんだ、嘘なんだ」
陽仁は釈に別の意味で興味はあるが、学歴には興味ない。陽向が学歴を気にしたのは、まだ
152
幼いからでもあるけれど自分の進路のせいだろう。
晶良だけ、真面目に話を続ける。
「あの焦げ跡はサイコメトリーも通用しなかったんですよね。地道な捜査しかないわけですね」
「そうですね。一旦我々は引いておこうかと。他の捜索届も出てますしね」
「じゃあ、柘榴姉さんに伝えておいてください。釈卓也は人間じゃないって。と言うかもう人間じゃなくなってるって」
「わかりました」
光輝はまだおかずが皿に残っているのに、ヨイショッと立ち上がって言った。
「じゃあ、わたしはこれで失礼しますわ。マネージャーさん、飯ありがとさん。総領さんも今日はありがとうございました」
晶良が光輝を見上げる。
「お茶くらい飲んで帰ったらどうですか?」
「いやぁ......」
光輝が後ろ頭をかきながら言った。
「こういうの苦手なんで」
(やっぱり)
光輝がこの雰囲気に無理に馴染んでるふりをしているのは感じていた。陽仁は立ち上がり、
153
光輝が丸めておいた黒いジャケットを取り、彼に手渡す。
「気をつけて」
光輝が黙って陽仁を見ていたが、こそりと呟いた。
「あんたにゃおふくろさんが憑いてるよ」
陽仁はハッとした。
「体に気をつけなよ」
そう言うと、壇を下り、晶良に軽く頭を下げる。
「んじゃ、なんかわかったら知らせますんで」
三人で壇を下りると、光輝を玄関まで見送った。
光輝がペントハウスのエレベーターに乗るのを見届けると、三人はリビングに戻り、食べ終わった食器を片付けた。
座卓を囲んでお茶と茶請けを口にしながら、陽仁は晶良に尋ねる。
「あのさ、光輝さんってずっとあんな感じなのか?」
晶良が首を振る。
「いいえ、昔は真面目な人でしたよ。あんなことがなかったら、今だって真面目だと思います」
「あんなこと?」
晶良が辛そうな表情を浮かべる。
154
「猛流兄さんがあんなことをしなかったら、柘榴姉さんも光輝さんも幸せだったはずです」
陽仁は聞いたらまずいかな......と思いつつもつい聞いてしまった。
「あんなことってなんだ? 猛流って誰だ?」
「猛流兄さんは僕の従兄だったんです。もう、死んじゃいましたけど」
陽向が尋ねる。
「事故かなんかに巻き込まれちゃったの?」
晶良がどこかしら悲しそうに微笑む。
「そうですね。でも、みんな死んじゃったんです、僕のせいで」
陽向が目を見開いたあと、下を向いた。聞いてはいけないことを聞いたと思ったらしく、小さく謝る。
「ごめんなさい......」
晶良が慌てて手を振る。
「いいえ、陽向さんは悪くないですよ。辛気臭いことを言った僕が悪いんです」
陽仁は目を細めた。岡山で確か晶良は従兄の話をした。そのときになんと言っていたか......? 姉さんたちよりもずっと一緒にいたと話しながら悲しそうな顔をしていた。それと関係あるんだろうか。
自分たちに話してないことが、晶良にはたくさんあると感じた。それを話してくれるまで一
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体どのくらいかかるのだろうか。本当に晶良が陽仁たちに心を許すまで?
人は本当に悲しいこと辛い記憶は誰にも明かさないと思っている。陽仁自身自分の親のことを晶良に話したことがないし、陽向も同じだ。話せば、楽しい記憶と一緒に悲しい記憶まで呼び起こしてしまうから。
きっと晶良にもそんな記憶があるんだろう、自分を責めたくなるくらいに辛い過去が。それを無理にほじくり返したくない。いつか晶良が本当の意味で陽仁たちに心を許して話してくれるまでは、待つことしかできない。
すっかり明るい雰囲気に戻った二人がテレビを見て無邪気に話をしているのを、陽仁は眩しい思いで見守った。
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第五章
陽仁は釈卓也のセミナー会場である、巨大なセンタービルのもとに立っている。隣には晶良と光輝。
三人は晴れ晴れとした空の下で、都営のモノレール線から徒歩五分ほどの、銀色に輝くビルを眩しげに見上げた。
空は青く、遠くに分厚く質量感のある雲が地上から盛り上がっているように見える。
「今日は夕方に雨が降るそうですよ」
そういう晶良の手には傘はない。陽仁も手ぶらだが、ふたりともいつものバッグを持ってきている。本当に手ぶらなのは光輝だけだ。
「セミナー開催まであと五分ですね、そろそろ行きましょう」
晶良の言葉を合図に三人はビルへ入っていった。
ビルに入った途端、体中にかいていた汗が急に涼しい風に晒されてひやりとする。徐々に涼しさに慣れてくると、汗が乾いてきた。
セミナー会場は東棟の五館だ。イベントなどが催される会場の一室で、非常に広い。大体五百人ほどの人間を収容できる。
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「本当に五百人も来るのか?」
陽仁は訝しげに会場の入口を眺めて言った。出入り口にはピーナッツのような形のロゴが入った腕章をつけたスタッフが待機している。
スタスタと晶良がそちらに歩いていき、何か話しかけた。慌てて陽仁は晶良を追っていく。
「先に行くなって。何かあったらどうするんだ」
あとから来た光輝がヘラヘラと笑う。
「まぁまぁ、総領さんに何かあるなんてこたないから」
陽仁は、自分がいまだに晶良の外見に惑わされているのかもしれないと思いつつも、やっぱり心配してしまう。
「会場費はお一人五百円です。会場費を頂いたらパンフレットをお渡しします」
穏やかな笑みを浮かべたスタッフの女性が言った。
陽仁は三人分の会場費を払って三部パンフレットを受け取った。それをそれぞれに手渡す。
光輝がパラパラとパンフレットをめくって見ている。
「ははは。何の変哲もない内容だなぁ」
「そうですね、釈の本の内容と同じです」
三人は空いた席に座る。すでに会場は満杯で、三人が座れる場所は最後部にしかなかった。ほとんどが若い女性で、なかにチラホラと男性や中高生が混じっている。
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「やっぱりイケメン効果だわ。女ばっかだ」
光輝が感心したように呟く。
陽仁は呑気に周りを見回している光輝にちらりと視線を送り、昨夜のことを思い出す。
昨夜遅く、晶良の携帯電話に柘榴から連絡があったのだ。
『晶良か。釈のセミナーに行ったきり帰らないという家族からの依頼だ。明日、佐伯光輝を寄越す。彼の案内に従って、釈卓也のセミナーを受けてこい』
それを断るような勇気も理由もなくて、晶良は緊張した声音で、「はいっ」と答えて電話を切った。
側で聞いていた陽仁は晶良にもっと詳しく聞こうと時間帯を尋ねたが、晶良が困ったように答える。
「光輝さんが来たときが柘榴姉さんの言う約束の時間だから」
「じゃあ、朝から待機かぁ......」
柘榴さんはいつもこんな調子で簡潔にしかしゃべらない。一体何時頃とか教えてくれればいいのにと思ってしまう。
それでも今日の朝九時に光輝がやってきたので長く待つことはなかったのだった。
光輝はいかにも眠たそうに、やや長い黒髪を後ろになでつけて、いつもどおりだらしない格好でやってきた。しかも息が酒臭い。一体いつまで酒を飲んでいたかわからなかったので、用
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心して聞いてみた。
「今日は車ですか?」
光輝が眠そうにあくびを噛み殺して答える。
「いいや、今日は電車。会場も公共機関使ったほうが便利だし」
そういうわけで晶良はぼんやりした状態でフラフラと陽仁に付き添われてここまで来た。それもあってか、いつも以上に晶良に気を遣ってしまう。
席につくと晶良もぼんやりモードから仕事モードに切り替わった。辺りを見て、納得するように頷く。
「何が見えてるんだ?」
「会場にいる人たちの欲ですよ。だいたい黒い霧みたいな形で見えるんですけど、体から離れて、あの演台のほうに集まってますね」
「あー、たしかに何人かおかしいのがいるな」
光輝もそう言うけれど、陽仁には何がなんだかわからない。
開演時間になり、演台以外会場の照明が落とされた。
いよいよ釈が現れるかと陽仁は拳を握って演台を見ていたが、現れたのは若い男性で釈ではなかった。会場も少しざわつく。
「皆さま、本日は暑いなかわざわざお越しくださいましてありがとうございます」
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男は定番の挨拶を終えると、パンフレットを開くように促した。演台の背後にあるプロジェクターにパンフレットと同じ画面が映し出される。
「セミナーで釈さんが公演することはありません。なぜなら、そのパンフレットに必要なことが全て書かれているからです」
男はそうやって、セミナーと称した著作の宣伝を始める。普通なら怒ってもいい場面だが、誰も不思議なくらい文句も言わず、男の解説を聞いている。
「みんなの欲が、男に吸い込まれていきます。たぶん皆さん、今とても気持ちがいいはずです」
陽仁が囁く。
「俺は別になんともないぞ?」
「そりゃ、総領さんが結界張ってるからに決まってんだろ」
長い足を伸ばして、だらしなく座っている光輝が言った。
陽仁はムッとして言い返す。
「そんなことわかるわけないでしょう。第一、俺には結界なんて見えないし」
「まぁまぁ、ふたりとも。光輝さんにだって僕の仕事は見えてませんよ。ねぇ?」
光輝が口元を歪める。
「そうですね、なんもわからねぇ。総領さんの仕事は完璧ですから」
晶良の能力を見極めることを異能力者の光輝にもできないなら、至って普通の人間である自
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分にわかるわけがない。そういうふうに陽仁は納得した。
「それにしても吸い込まれてるってどういうことだ?」
「それはわかりませんけど、あの男性の体にここにいるみんなの欲が吸い込まれていることは確かですし、これって釈のサイン会で見た状況に似てます」
陽仁は釈のサイン会のことを思い出した。あの時も晶良は釈がみんなの欲を吸っていると言ってなかったか。
それと同時にあの変な形の置物のことも思い出した。何かが繋がりそうで繋がらない。
「欲を吸ってどうするんだ......? 気持ち悪くならないのか?」
「目的はわからないですけど、こういうことを何回も受ければみんなセミナーに行けば気分が良くなることを覚えちゃいますね」
「言う事聞けばうまいもん食えるって覚えた犬みたいなもんだな」
光輝が言い得て妙なことを口にした。
公演は一時間で終わり、最後に男が付け加える。それだけはパンフレットにはなかった。
「釈さんが実際に参加される合宿が明日から一泊二日で行われます。興味がございましたらスタッフにお申し付けください。参加費は二千円になります。送迎をおこなっておりますので気楽にご参加ください」
陽仁はそれを聞いて呆れる。
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「いきなり明日からか。これで釈のセミナーから帰らなかった理由付けはできたな」
「遠方から来た聴講者の方なら一泊して翌日に参加するということもありえますね」
「じゃあ、いっちょわたしらも参加してみますかね」
陽仁は飲みに行くかという気軽さで提案してきた光輝を、驚いた目で見やった。
(マジで言ってんのか)
しかし、晶良がそれを断る。
「駄目です。明後日は陽向さんのお友達と、お友達クラブの合宿に行きますから」
光輝がぼんやりと演台の男を見ている。ふと陽仁はこの間のこともあって尋ねてみる。
「あの男の人、欲を吸い取ったって言ってましたけど、さすがに何かに取り憑かれてるんじゃないですか?」
光輝がぼんやりしたまま答える。
「いーや、なんもない。不思議なくらいなんもないな」
「空っぽですから。なかに詰まってるのは他人の欲で、自分の欲はどこにもないんです」
パンフレットに書かれている釈の言葉を読み返す。
『人間関係を円滑にするのは吸引力です。魅力を磨けば、自ずとコミュニケーション能力は向上します』
(吸引力ってそういうことなのか? 他人の欲を吸い取って、相手を気持ちよくさせるから、
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他人から好かれるってことなのか? でもその吸い取った欲はどこに行くんだ。自分のなかに溜め込んだままなのか......?)
陽仁には不思議でならなかった。
結局合宿には光輝だけが参加し潜入調査することになった。
帰り際にスタッフのいる受付コーナーに行くと、そこになぜか相良がいた。
「相良さん、久しぶりです」
驚いて陽仁が声をかけると、相良は相変わらず笑顔で挨拶を返してきた。
「諏訪さんでしたっけ? 今日は陽向ちゃんと一緒に来られなかったんですか」
「陽向は学校で勉強ですよ」
「夏休みなのに大変ですね」
「それより、相良さんは釈さんのセミナーでもバイトしてるんですか?」
相良が笑顔を崩さずに答える。
「ボランティアです。毎回こうやって手伝ってるんです」
「......毎回ですか」
そして陽仁は、腕章のマークと相良が胸につけている瓢ひょうたん箪の形が似ているのに気付いた。
「腕章のロゴとそのブローチ関係あるんですか?」
「え? ああ、まぁそうですね」
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「その瓢ひょうたん箪......ブローチですけど、お友達クラブの皆さんもつけてましたよね?」
「あははは。瓢ひょうたん箪に見えなくもないけど、これ、卵なんです。素晴らしいものが生まれるって象徴です」
「卵......」
すると、横から光輝が割って入った。
「あのさ、明日の合宿参加すんには、どうしたらいいの」
相良がすぐに光輝の相手を始めてしまって会話はそこで終了した。
すべての手続きが終わり、光輝がぼんやりとした口調で呟いた。
「あの兄ちゃん、なんもなかったな。まるで死人だ」
三人はセンタービルを出て駅に向かって歩き始めた。
その間中、晶良が光輝を心配して話しかけ続ける。
「無茶しちゃ駄目ですよ。危ないと思ったらすぐに逃げてくださいね」
光輝が乾いた笑いを漏らす。
「ははは。総領さんは優しいなぁ。大丈夫ですよ、くたばり損ないですから、そうそう死にゃしませんよ」
「念のために電話番号を教えて下さい!」
光輝は仕方なさそうに陽仁にくしゃくしゃになった名刺を渡した。
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光輝とは乗り継ぎ駅で別れて、陽仁と晶良がペントハウスへ戻ろうとしたとき、晶良の携帯電話が鳴った。
慌てて表示画面を見ると見覚えのない番号だった。出てみると、鳥とばただあき羽忠明からだった。
『一宮さん! あれから連絡があってあの変なものを持って言われた場所へ行ってみたんですけど、素晴らしかった。父は毎回浄化してもらうたびにあんな体験をしていたんですね!』
「どうしたんですか?」
『だから浄化しに行ったんです。あの変なものに溜まった悪いものを浄化したんです。そしたら、本当に素晴らしい体験をしたんですよ! 父がわたしに言いたくなかったわけがわかりました。多分、テナントを貸すために知人も連れていって契約までさせてたんでしょうね。あぁ、わたしもそうしてみます。ほんとにお騒がせしました。ありがとうございます!』
「忠明さん? ちょっと待ってください」
しかし電話は切れてしまった。
「どうしたんだ? 忠明さんがなんだって?」
晶良が眉を顰ひそめる。
「尋常でない様子でした。すごく興奮してて、あの変なものを浄化したって言ってました」
「なんだって......。あれだけ連絡が来たら知らせてくれって言ったのに」
陽仁の言葉に晶良がため息をつく。
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「急を要することを言われて急かされたってこともありますし......」
しかし、もう済んでしまったことだ。それでも、忠明の様子を確かめたほうがいいと思えた。
「晶良、忠明さんがどうなってるか確かめよう。あの瓢ひょうたん箪の話、覚えてるよな? もしもだけど、あの瓢ひょうたん箪が欲を吸い取ってるなら、忠明さんから取り上げなけりゃ」
「そうですね」
陽仁たちは駅前でタクシーを捕まえて忠明の事務所へ急いだ。
忠明は意外に明るい笑顔で陽仁たちを迎え入れてくれた。相変わらず事務所内は綺麗らしいが、晶良が気になることを口にする。
「忠明さん、どこか変です......」
「どう変なんだ?」
陽仁の言葉に晶良が首を傾げる。
「生気? 欲? 何かを失なくしてます」
「瓢ひょうたん箪に吸い取られたんじゃないのか?」
「かもしれないですけど、事務員さんは普通なんです」
「あの瓢ひょうたん箪を見せてもらおう」
間もなく席を外していた忠明が戻ってきた。
「わざわざお越しくださって......、わたしがあんな電話をしたせいですね」
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陽仁は忠明に切り出した。
「忠明さん、あの変なもの、まだ持っていらっしゃいますよね?」
「ええ、あれが何か」
「見せていただいていいですか?」
すると、先日はあれほど気味悪がって手放したがっていたのに、忠明がしぶり始めた。
「いや、あれは......、今はお見せできません」
「なぜですか」
陽仁は訝しげに尋ねた。
「人に見せたらいけないものだったらしいんです。あのときは知らずにあなた方にお見せしてしまいましたけど......。あれはうちの家宝だそうでして......」
「家宝......」
陽仁は呆れてしまった。変なものから家宝へ昇格してしまっている。陽仁が言葉に詰まっていると、晶良が言う。
「あれは家宝じゃないですよ」
忠明の笑顔が固まった。
「家宝ですよ」
「誰がそんなことを言ったんですか?」
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「......そんなことを知ってどうするつもりなんですか? まさか、うちの家宝を奪うつもりですか」
晶良が眉根を下げる。
「そんなことしませんよ。そんな大事なものをどうやって手に入れられたんでしょうね、大叔父さん」
忠明が自分を守るように両手を膝に置き、体を縮こまらせる。。
「そんなことは知りませんよ。こういうものは必要としている人のところへ自ずとやってくるんです」
「それは、浄化した方が言ったんですか?」
忠明は黙ってしまった。強く口止めされているようだ。
「......これからお客様がいらっしゃるので......、お帰り願えますか」
態度を急に変えて、忠明が言った。
陽仁がもう少し追求しようとしたとき、晶良が制した。
「わかりました。今日はこれで帰ります。でも何かあったらまた連絡してください。今のうちならなんとかしてあげられますから」
忠明が硬い表情でそれに返答しながら立ち上がる。
「何もないですから......」
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結局陽仁たちは何もできず事務所を出た。
事務所から炎天下のもとに出ると、晶良が事務所を眺めて言った。
「もう、忠明さんは取り込まれちゃったみたいですね」
「何に?」
晶良が微かに笑んだ。諦めたような表情だ。
「何かを吸い取るものにですよ。人の生気や欲を吸い取る化物にです」
「なんでそんなことがわかるんだ?」
陽仁は首を傾げた。
「あの瓢ひょうたん箪、忠明さんの机の上にありましたけど、前より綺麗になってました。前来たときにもっとよく見てればよかったです」
「あの瓢ひょうたん箪か......あれが忠明さんの何かを吸い取ったっていうのか?」
晶良が深刻な顔をして首を振る。
「わからないんです。あれが忠明さんの何かを吸い取っていれば、あのなかに忠明さんの気配が残るはずなんです。でもそれはなかったんです」
「それじゃあ、結局忠明さんが言おうとしなかった浄化したやつが?」
「そうなりますね......。あの調子だと、忠明さんもいずれ鳥羽さんと同じ運命をたどることになると思います」
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陽仁は呟く。
「消える......焦げ跡になるってことか」
「そうです」
ペントハウスに帰り、陽仁は合宿に行く準備を済ませた。晶良は帰ってきてからテレビも見ずに座卓に頬杖をついて考え込んでいる。
多分今日の起こったすべて思い出して整理しているのかもしれない。
夕飯の時間になり、帰ってきた陽向に手伝わせて料理を作ると、いつもどおり食事を始めた。そのころには晶良もいつもの様子で、テレビを付けて、食べながらそれに見入った。それを何度も陽向に注意されている。
「晶良ちゃん、テレビ見ながら食事をしちゃ駄目だって。お行儀が悪いよ」
「僕、今までこうしてて、誰にも何も言われなかったですよ?」
「それはみんなが晶良ちゃんを甘やかしてたからじゃないの?」
すると、晶良が思いがけないことを言われたように目を丸くする。
「僕は甘やかされてたんですね。考えたこともなかったです。そういえば、姉さんたちはテレビを見てませんでしたね」
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「翡翠さんだっていつもここに来ても、テレビ見てる晶良ちゃんを怒ったことないじゃん」
「そうですね。新しい発見です」
「新しい発見じゃないよ。ほら、ご飯こぼしてる」
そう言いつつ、陽向が晶良を甲斐甲斐しく世話しているのを見て、やはり兄として陽仁は深いため息をついた。
食後、三人で珍しく紅茶とケーキを食べながらとりとめのないことを話していると、陽向がぼそっと言った。
「明日さ、アニキ、合宿に行くでしょ」
「ああ」
「あたし、行かなくてよかったー」
陽仁はあれほど行きたがっていたとは思えないようなことを言う陽向を不思議そうに見やった。
「どうしたんだ?」
晶良も顔を上げて、陽向を見つめる。
「みほりんがさ、合宿に十人以上連れていけるから、自分もエクセレントクラスになれるってしつこいんだよね」
「エクセレントクラス?」
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陽向がショートケーキのいちごの部分を口に含む。
「うん。なんかね、お友達を五十人にするとリーダーになれて、百人に増やすとエクセレントクラスっていうのになれるんだってさ」
陽仁は呆れた。
「階級があるのか」
「それ聞いたらさー、みんな白けちゃって」
それはそうだろう。単純にお友達と一緒に遊ぶのと意味が違ってくる。お友達を何人集めたら何になれると聞けば、友達をステータス代わりにしている幼い子供は反感を覚えるはずだ。
「それでどうしたんだ」
「んーん......みんな行かないって決めた。でもみほりんには秘密」
(子供は残酷だな......)
苦笑せざるを得ない。そうやって異物を自然淘汰していくのだろう。陽向とその友達は、みほりんという異質な存在を排除したのだ。
「だから晶良ちゃんたちもやめていいんだよ?」
陽向がケーキを巻いていたセロファンを器用にフォークで丸めて皿の上に置いた。
晶良がケーキを頬張りながら笑顔で答える。
「僕たちは行きますよ。別にお友達になる必要なんてないですから。それに、みほりんさんは
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お友達をなくしたばかりでしょう? だからすごく寂しくて、そういうことを言っちゃったかもしれないですよ。気にしないでみほりんさんとまた遊んではどうですか? それでも嫌だったら、お友達をやめたらいいと思います」
優しく諭す晶良を見て陽仁は内心ホッとした。
「うーん、晶良ちゃんがそう言うなら。みんなにもそう言ってみる」
(陽向は素直だなぁ......)
アニキ心で陽向を褒める。色眼鏡無しで自分の妹は性格がいいと思う。喧嘩もするが、あのくらいかわいいものだ。目を細めている陽仁を見て陽向が気味悪そうに言った。
「何? アニキ、ニヤニヤして気持ち悪い」
一気に心がどん底に落ち込む。やっぱり子供は残酷だとひとりごちた。
陽向が宿題をするために部屋に戻ったあと、陽仁は晶良に尋ねた。
「今日、相良さんがいたろ?」
「ええ、何か話してましたけど、どうかしたんですか?」
「お友達クラブのバーベキューに行ったときに、世話してた連中がみんな瓢ひょうたん箪の形したブローチしてたの覚えてるか?」
晶良があの時のことを思い出すようにまばたきをした。
「ああ、そういえばしてましたね」
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「今日行ったセミナーのスタッフがしてた腕章覚えてるか」
「ええ」
「あれにも同じような形のロゴがあったろ?」
「そうですね」
「あれはなんだって相良さんに聞いたら、卵だって言うんだ」
「卵?」
「ああ、素晴らしいものが生まれる象徴らしい」
「素晴らしいもの......」
晶良がしばらく考えてから呟く。
「きっととんでもないものが生まれる卵ですよ......」
その言葉が何かを予兆しているように聞こえて、陽仁は背筋が寒くなった。
合宿当日、早朝からバスの到着場へ足を運び、単身、光輝は釈の合宿に参加した。
バスを使って富士山麓の合宿施設まで連れてこられ、まず釈から受けるミーティングをすっぽかして、早速館内を見て回った。
タバコが吸えないことで少し苛々しながら、スタッフが入っていった廊下の隅にある扉を開
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けた。案の定、エレベーターがある。
(これで表記されてない八階に行けるか)
念のために術式で式神を配置する。誰か来れば伝言を相手に伝えて、なおかつ自分にわかるようにするためだ。八階まで行ってしまえばあとはどうにでもなる。
それに、柘榴には報告をちゃんとした。
(無茶はするなってあいつに言われそうだな)
光輝は口の端を歪めた。そっと左指の指輪を見る。
(あいつと約束したもんな......)
エレベーターはやがて八階に到着して、軽やかな機械音を立てて開いた。他の階と違いシックな黒絨毯だ。光輝はその絨毯を踏みしめて廊下の端にある扉に向かって歩き出した。
扉は白く塗られて、ノブは金色だ。この中に何があるかわからないが、異様な感覚がそのドアから滲み出てきてくる。ドアノブを中心に空間が歪んで見えるのだ。皮膚にチリチリと静電気が走る。ただならぬものであることは間違いない。
ドアノブに手をかけるとたやすく開いた。
誰もいないと、一瞬そう思った。
(ミーティングすっ飛ばしてここに来たからなぁ......)
それなのに一歩踏み込むのがためらわれる。ここに入れば、もう二度と戻れない気がする。
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だが、自分にはGPSが取り付けられていて、零課にはすぐにわかるようになっている。それが光輝に隙を見せた。
深く息をついて光輝はなかに踏み込んだ。暗い部屋の正面に足のないベッドが置かれている。そこに人が横になっているのが見えた。
「気が早いのね、一足先にようこそ」
女の声だ、しかも若い。十代くらいだろうか......。けれど灯火もない部屋では見通せない。
「こんな場所にこんな部屋があるとは思わなかったよ」
「ここはエクセレントな人間が来れる部屋なの。あなたはエクセレントな人かしら......。あぁ、でもすごく魅力的な欲を持っているのね。憎しみと愛と自己嫌悪と絶望と......美味しそうね。こっちに来て」
一歩踏み込んでしまうと体が自分の意志では動かなくなった。
(くっ......)
光輝は式神を飛ばすために真言を唱えようとした。が――。
一瞬のうちに、目の前に黒髪の女が立っていた。長い黒髪が裸体にとぐろを巻く。
長い前髪が黒目がちのつぶらな瞳を隠している。赤い薔ばら薇のような唇と紙のように白い肌。青く静脈が皮膚の下に浮いている。
盛り上がった胸には桃色の茱ぐみ萸のような乳首。細いくびれた腰にまだ生えそろっていない淡
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い恥毛。体臭はどことなく膿んだような甘ったるさがある。
顔は形容し難がたい。恐ろしいほど整った面立ちだ。あまりにも整いすぎて人間らしさがない。
予想と違い、女の中身は空っぽではなかった。得体のしれないものがぎっしりと詰まっているのに、それは臓器にしか見えない。臓器に見える何かだ......。
(いつものやつと違う......)
光輝がたじろぐと、女が笑う。
「その力、余計なものを視みてしまうようね。でも、欲しいわ......。封印を解く力の足しになるかも」
「何、言ってんの。力なんて俺は知らねぇよ。それとも、あんた、裸で俺を誘惑してんのかな」
女が嫣えんぜん然と唇を横に伸ばしてニィッと笑う。光輝を見上げる瞳に微かな媚が浮かんでいる。けれど、それもやはり演技のように空々しい。少女に似つかわしくない甘ったるい声が漏れる。
「くく、そうよ、誘惑しているの」
女のスラリとした両腕が光輝の首に絡みつき顔を寄せた。鼻先に唇を這わせて、信じられないくらい甘い息を吐きかける。赤い舌を伸ばし、鼻先をちろちろと舐める。
「わたしを見て堪こらえられるかしら」
「あんたみたいなガキに勃つわきゃないだろ」
試すように女が赤い舌先で光輝の唇をツツッと舐めた。それから唇を割り、異物のような生温かい塊で歯列を割って、光輝の舌に擦りつけてくる。貪るように唇を重ね、少女とは思えな
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い力でさらに部屋の奥へと引きずり込む。
光輝は革靴の爪先で絨毯を蹴りつけながら抵抗するが敵わない。ずるずると引きずられて部屋のなかへ入ると、空気が明らかに変わった。
麻薬のようなキスに光輝の頭がクラクラとしてくる。女の唾液が神経を高ぶらせて否が応でも体が反応する。強気に光輝は少女に笑ってみせる。
「ちょっとおいたがすぎるんじゃないか......」
そう言って、女を引き剥がそうとするがなぜかできない。手足から力が抜けてくる。それなのに意思とは無関係に男根が持ち上がり硬くなってくる。少女に力づくでベッドに引き倒された。
ベルトを引き抜かれ、ズボンを引きずり降ろされて、力なく横たわる自分に跨またがり微笑む少女を見上げる。
「何するつもりだ......」
「あなたに今からめくるめくような快感を与えてあげる」
そう言って、女は光輝の意思とは裏腹に怒張した男根を赤く熟れた淫唇の中へ導いた。にゅちゅと肉襞が硬くなったそれにまとわりついて飲み込んで離さない。温かく柔らかな肉の中で、男根はさらに硬度を増す。膣から溢れる甘酸っぱい蜜が、光輝の鼻腔をくすぐる。それ以外にも膿んだ傷跡が放つ甘い匂いも漂い始めた。
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女が艶かしく腰を揺らすたびに肉襞で擦られて引き絞られる。
信じられないほどの快感が下半身ではなく、脳髄にネバネバと触手を伸ばして締め付けてくる。まるでそれは粘着質の産卵管が快楽の卵を光輝の脳みそに産み付けていく。
それと同時に柔襞に締め付けられる男根から、何かが吸い取られているのを肌で感じる。
女が髪を振り乱し、胸を震わせ、くいくいともっと深くに亀頭が当たるように腰を振る。
「素晴らしいわ。あなたがもっと欲しい。きっと役に立つでしょうね」
そう言いながら、女は自分のゆさゆさと揺れる乳房を持ち上げて、梅の蕾に似た乳首をつまんでいじりだした。
下腹部と腰に女の髪と白い尻がねちゃねちゃとした生温かいスライムのようにまとわりついてくる。光輝は自分の腰を包みだしたものを目にした。漆黒の、ミミズのような触手を持つ喩えがたい何か。女の腹から下が得体の知れないものに変化していく。
とろりと白い肌が崩れて表皮から滑り落ちていく。皮膚の下には白い脂肪が薄く筋肉にまといつき、それが火にあぶられたバターのように溶けていく。
豊かな乳房が重さに耐えきれず、胸筋からずり下がり、ぼとりと光輝の胸に落ちて潰れた。それなのに、女の顔と黒々とした髪だけが変わらずそこにある。
筋肉も型くずれ、青黒い内臓が重さで女の股ぐらに溜まっていく。それらをどす黒く変色した女の両腕が拾い上げてともに溶け合う。
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腐敗した死体が光輝の体を舐め尽くす。肉棒を包む襞だけが生きているように蠢いている。
どろどろに溶けた人間の残骸が、臭気を伴いながら光輝の怒張を貪り、精を絞り尽くしていく。
「うあぁ......」
光輝の声に気づいた女が赤い唇を釣り上げて笑った。
「駄目ね、この体......。どうしても形を保っていられないのよ......」
果てのない愉悦が光輝の体を蝕んでいく。霞む意識の底で、GPSで自分のもとに、早く零課の人間がたどり着いてくれることを祈った。
合宿当日――。
晶良は人混みに当てられてよろよろしながら、東京駅にたどり着いた途端、へたり込んだ。
「も、もう駄目です......、僕のことはいいですから陽仁さんだけでも......!」
「おい、遭難者みたいなこと言うな。この時間帯はタクシーだと渋滞するからどうしようもなかったんだよ」
陽仁はボストンバックからおにぎりを出して、晶良に手渡す。晶良がそのおにぎりを目一杯頬張って食べ、一息ついた。
「そういえば陽仁さん。留守の間、山やまわろ童はどうするんですか」
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「ああ、それは陽向に任せた。あの穴の側に石を置いたんだ。そこにおにぎりか食事のおすそわけを置いておけって」
「それにしても......妖かしは厄介ですからあまり信じないようにしてくださいね」
「お前の姉さんは随分妖かしを信じてるみたいだぜ?」
晶良が座り込んだままため息をついた。
「それは妖かしが瑪瑙姉さんの使い魔だからです。みんなとまでは行かなくても、多分あの妖し世にいる妖かしは姉さんの式神だと思います」
「妖かしが式神? そんなことができるのか?」
晶良が顔を両手で覆う。
「こんなこと言いたくないですけど、瑪瑙姉さんは妖かしを従えるためにかなり酷いことをしたらしいんです」
「酷いこと......実験に使ったとか?」
「その程度なら可愛いものですよ......」
「誰がそんなこと言ったんだ......?」
晶良がしゃがみこんだまま両手を頬に当てた。
「瑠璃姉さんです。瑪瑙姉さんは誰も知らないところでそれをやったみたいですけど、瑠璃姉さんにはわかっちゃって......。それで喧嘩して、瑪瑙姉さんはいまだに妖し世に引きこもって
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るんですよ」
陽仁はそこまで聞いて驚いた。あの時間のない世界......あそこは妖し世だったのだろうか。
「瑪瑙さんがいるのは妖し世なのか?」
「はっきり言うと狭間に家を建てて暮らしてるんです」
「それでペントハウスに戻ったとき時間が経ってなかったのか......」
「そういうことです。よいしょ」
晶良がやっと一息ついたのか、立ち上がった。
「さて、行きましょう」
待ち合わせ場所につくと、すでに大型バスが数台停まっていた。バスの前には相良がいて老若男女を引率している。
「おはようございます」
陽仁と晶良が挨拶すると、相良が気付いてにこやかに頭を下げた。
「おはようございます。お二人は一号車へお乗りください」
案内されたとおり先頭のバスに乗り込む。そのバスには主に中学生が乗り込んですでにワイワイと楽しげにおしゃべりをしている。
晶良に気付いた美穂が立ち上がった。
「あ、晶良さん、陽向のお兄さん!」
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陽仁は苦笑する。
(俺は陽向の付属物か)
「こっちこっち!」
美穂が自分の近くの席を指す。言われるままにその席に二人は座り人心地付いた。その二人にしきりに美穂が話しかけてくる。
「お兄さんたちが来てくれて嬉しい。友達は結局来なかったんですよー。みんな友達じゃなかったんでショックです」
「たまたま都合が悪かったんだよ。親に相談したら反対されちゃったとか」
「そうかなぁ......」
陽仁がフォローすると、眉を顰ひそめて美穂が首を傾げた。
「でも、わたし、他のクラスの子も誘ったんです。だから、ホントは困ってないんです。後輩も呼んだし。同じ小学校だった友達も誘ったし」
「そうなんだ」
陽仁はあえて何人誘ったか聞かず、笑顔で聞いていた。多分周りで騒いでいるのは彼女が連れてきた子たちなのだろう。
晶良がボストンバッグを開けて、なかから大量の和菓子を取り出した。にこやかに美穂に差し出す。
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「これ、いかがですか」
(おいおい、中学生に和菓子かよ)
案の定、美穂が戸惑ったような表情を浮かべて断る。
「あ、いいです。お菓子持ってきたから」
その手にあるのはチョコレートだ。スナックやチョコレートが大好きらしく、みんなと分け合って食べている。
晶良はと言うと、窓の外をじっと見つめながら和菓子を黙々と食べ始めた。その膝の上にはもなかやまんじゅう、大福餅が二十個ほど置かれている。それをきっと片道で食べてしまうだろう。さて帰りはどうしようかと、陽仁は思いつつ欠伸をした。
バスは東名高速道路に乗り、目的地に向かって走り出した。目的地は富士山麓にある合宿所だ。私設の合宿所らしく、非常に安く提供されているらしい、それで参加費が安いのだとバスに同乗したリーダーの一人がマイクで説明していた。
リーダーが音頭を取ってゲームをしたりカラオケを歌ったりして、時間は過ぎていく。
やがてバスは高速道路を下りて、一路、山梨県富士山麓へ向かう。
高速道路を下りたころにはみんな疲れ切って半数の子供たちは眠ってしまっていた。
バスは二時間半ほどで目的地に着いた。
眠っていた子供たちがリーダーたちに揺り起こされて次々にバスから降りていく。陽仁と晶
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良も一緒にバスから降り立つ。周囲は青々とした木立が茂り、ポッカリと空いた敷地にはホテル並みの施設がそびえていた。
リーダーの女性が陽仁と晶良にそっと耳打ちしてきた。
「子供たちは興味ないと思いますが、屋上に展望露天風呂もあるんです。ここ温泉引いてるんですよ」
それを聞くと、温泉好きの晶良が目を輝かせる。
「陽仁さん! 露天風呂です! 屋上ですよ!」
「お前、目的履き違えてないか」
「忘れてませんよう」
晶良はふてくされたように答えた。
それぞれに個室を与えられて、勉強はミーティングルームでおこなえるという説明を前もってされた。食事は共同で、一階にある大広間でとる。決められた時間までに来ないと下げてしまうので気をつけるようにと、まるで修学旅行のような雰囲気だった。
子供たちと大人たちのグループに分けられて、大人たちは別のミーティングルームに集まるように説明された。子供たちとは違い、こちらは観光ツアーのような雰囲気だ。昼食が済んだあと、近くの観光名所をバスで巡ることになっている。参加しない場合にもちゃんと暇潰しのためのレクリエーションルームが用意されていて、至れり尽くせりだ。
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とりあえず陽仁と晶良は同じ階の隣合わせの二部屋を割り当てられた。
陽仁は晶良と別れて割り当てられた部屋に入る。なかは少し広いビジネスホテルの室内に似ている。室内着が用意されていてテレビもある。冷蔵庫には酒類から清涼飲料までそろっていて、自由に飲んでいいようだった。
「なんなんだ......」
普通に考えて異常なほどにサービスがいい。まず参加費が異様に安く、二千円程度だ。そこで疑うものは淘汰されて、安さにつられて参加した人間がホテルに連れてこられる。周りは富士山麓樹海で、バスがなければ自力で逃げることもできないだろう。
陽仁は慌ててスマートフォンを取り出して電波状況を確かめた。やはり圏外だった。
(これって計算されてるよな......)
それでもワイファイは繋がっているため、不便さを訴えるものはいないだろう。陽向がインストールしたアプリのSNSは、電話番号登録さえしていれば、インターネットを通じて電話をすることができるのが救いだ。ただし、相手も同じSNSをインストールしていればの話だが。
陽仁は財布にしまった光輝の名刺を取り出し携帯電話番号を登録した。試しにSNSで検索してみると意外なことに彼も登録していた。翡翠や柘榴の電話番号も登録してみた。とりあえず友達申請をしてアプリを閉じる。
その時、扉がノックされた。陽仁は慌てて部屋のドアを開けてみると、室内着に着替えた晶
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良が、タオルを持って立っていた。
「陽仁さん、温泉行きましょう」
陽仁は晶良の呑気さにため息をつく。
「あのなぁ、俺たちが何しに来てるか自覚してるか」
「わかってますよ。でもまず温泉に行って施設内を見て回りましょう」
陽仁はがっくりと肩を落とし、自分も室内着に着替えて、展望露天風呂へ向かった。
潜入したという雰囲気もなく展望温泉を満喫して、無料の冷えたお茶を買い、ブラブラと陽仁と晶良は施設内を歩き回った。
宿泊施設の質としては二十三区内のホテルで言えば三つ星クラスの内装と設備だ。ある程度の合理的な作りは、あくまで施設であってホテルではないので仕方ない。
「それにしてもこんな豪華な施設、一体誰が提供してるんでしょうね」
「この施設は俺たちを不自由なく監禁するところだってことは確かだぜ?」
晶良が首にかけていたタオルを取って額を拭いた。タオル地の甚兵衛に紺色のポリエステル製の羽織姿だと、少し年上に見えるけれど、その分陽仁も年を食って見えるから損だ。
「三階から下は子供たちの部屋でしたっけ」
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「そうだな。どんなものか見に行こう」
二人はそう言ってエレベーターに乗る。
屋上に行くときも乗ったけれど、屋上含めて九階建てなのにボタンは屋上と七階までしかない。
「スタッフルームがあるのかな」
陽仁が不思議そうに言う。
「お友達クラブの人たちが見当たりませんから、そうかもしれないですね」
三階に着き、エレベーターを降りて壁の表示板にあるミーティングルームへ向かう。ルームの扉はガラス張りになっていて、なかがどんな様子か見ることができた。
子供たちはそれぞれ席について真面目に勉強をしている。家庭教師のようにお友達クラブの大人たちが子供たちの勉強を見ているようだ。
「意外に普通だったな」
何か恐ろしいことでもしているか心配していただけに陽仁はホッとする。
「そうでもないと思いますよ。あそこの子供たちの黒い靄、相良さんが吸い取ってます」
と言って、晶良が部屋の片隅を指差した。
何人かの少女や少年が集められて、お友達クラブの大人と話をしている。そのなかに相良がいた。
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「この部屋にいるリーダーたちは軒並み中身が空に近いですね。じゃなかったら、吸い取った欲でいっぱいです」
陽仁もドアに近づいてよく見てみる。靄は見えないけれど、子供たちが大人たちから何かを受け取っているようだ。
「あれ、まさかブローチか?」
ブローチを受け取った子供たちは一様に得意げな顔をしている。そしておもむろに彼らは立ち上がりこちらに向かってきた。
陽仁が慌てて立ち去ろうとするのを、晶良が羽織の裾を掴まえて引き戻した。
「逃げたら怪しまれますよ」
ニッコリと笑って言った。
扉を開いた相良が、晶良に気付いて微笑む。
「ああ、美穂ちゃんの様子を見に来たんですか?」
「ええ、どうしてるかなと思って」
美穂も晶良にすぐ気付いて駆け寄ってきた。
「晶良さん、わたし、これもらったんですよー!」
その手のなかには瓢ひょうたん箪型の卵と呼ばれたブローチがあった。
「これはなんですか?」
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「あのね、これ、エクセレントクラスに入れるパスなんですよー」
「エクセレントクラス?」
陽仁が首をつっこんだ。途端に美穂は手のなかのブローチを隠した。
(なんで俺だけめちゃくちゃ警戒されるんだ)
陽向くらいの年頃が一番わかりにくいと思いながら、今度は相良に聞いた。
「エクセレントクラスってなんですか? 俺たち聞いてないけど」
「大人の方には夜に会議室で話を聞いてもらうようにしてましたから。あれ? 展望露天風呂に行ったんですか?」
晶良がにこやかに答える。
「あそことってもいいですね。景色が一望できて」
そう言って子供たちを引率しようとした相良を、晶良が引き止めた。
「僕たちも見学したいんですけど」
「大人は夜になったら会議室に来てください」
いつになく相良が強めに言った。
(なんか見られたくないことでもあるのか?)
陽仁の疑いが表情に出ていたのか、相良が態度を和らげる。
「仕方ないですね。今回だけですよ」
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そう言ってエレベーターとは反対側の廊下へと連れていかれ、廊下の端にあるドアのなかへ導かれた。そこにはもう一つエレベーターがあり、表示版は八階になっていた。
「八階ってここから行けたんですね」
晶良が素知らぬふりで尋ねる。
「特別室だけ分けてあるんです。いずれあなた方も案内したんですよ」
「そうですか?」
そんなわけはないだろうという響きが、晶良の言葉にこもっている。それは陽仁も同じ意見だった。
相良たち、お友達クラブのリーダー格の連中は自分たちを選ぶはずがない。
エレベーターに乗るときに、軽く晶良が「あ」と呟いた。
「どうした?」
陽仁が聞くと、晶良が微笑んで答える。
「なんでもありません。陽向さんに録画頼むの忘れたなぁって思い出して」
(ほんと、ドラマとかバラエティとかニュース好きだよな......)
陽仁は半ば呆れたように晶良を見やった。
エレベーターのなかで晶良が美穂にそっと話しかけた。
「そのブローチ見せてくれますか?」
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「駄目、これ、誰にも渡しちゃいけないって......」
相良がすかさず遮った。
「こら、美穂ちゃん。僕たちの秘密ルールを話しちゃ駄目だろ」
「あっ、そうだった。ごめん」
美穂が慌てて口を押さえた。彼らは一見和気藹々としている。どちらかと言うと子供たちは羨望の眼差しで彼らを見つめているのがわかる。
「そういえば、あなた方はエクセレントクラスなんですか?」
晶良が問うと、相良が微笑んだ。
「僕たちはまだエクセレントクラスじゃないです。あの方々は僕たちの上になります。すごい方々ですよ。まさに選ばれた方々で、素晴らしいの一言につきます」
「君たち以上にすごい人がいるのか」
わざとらしく陽仁が褒めるが、相良の表情は崩れなかった。晶良が続けて質問する。
「リーダーは何人もいるけど、エクセレントクラスの方は人数が少ないんですか?」
「五人です。人格も品性も教養も魅力も全てにおいてエクセレントです」
「そ、そうなんだ......君はエクセレントクラスになりたくないの?」
陽仁の言葉に、なぜか相良が満面の笑みで答える。
「僕はそんな器じゃないんです」
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(そこは笑うところなのか......?)
電子音が響き、八階への扉が開いた。
子供たちを連れて相良たちが下り、それに陽仁と晶良も続いた。扉を開けると三階と同じような廊下が続いているが、八階だけ少し内装が変わっていた。階下は赤い絨毯が引いてあったがここは黒い。シックでモダンなイメージだ。
(これがエクセレントクラスね......)
陽仁はキョロキョロと周りを見回しながら思った。
向こう側の廊下の端に男が立っている。ラフな格好をしていてやっぱり他のリーダー格と同じように大学生にしか見えない。その胸にもやはりブローチがある。
「こんにちは、弥みろくいん勒院さん」
「ご苦労様、相良くん」
明らかに弥勒院と呼ばれた男のほうが相良より立場が上だ。
弥勒院は背が高く、爽やかな好青年に見える。整った顔つきで、芸能人と言われたら信じてしまう。そして、なんとも言えない魅力のようなものがあり、目が離せない。男でもなんだかかっこいいと思わせる空気感がある。カリスマというものなのだろうか。
「他の皆さんは?」
「もう集まって待っているよ。この時間は子供たちだけじゃなかったのかな?」
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相良が笑顔のまま答える。
「エクセレントクラスのことがどうしても知りたいとおっしゃってて」
弥勒院がじっと晶良を見つめる。女性が見たらうっとりするような目つきと表情で、晶良に向かって言った。
「君は......とても特別な感じがするね。すぐにエクセレントクラスになれそうだ」
「そうなんですね、そしたら案内した甲斐がありました」
と言う相良の言葉に弥勒院が返す。
「でも相良くん、この人たちには引き取ってもらってくれ。わたしたちは子供たちと話があるから」
「はい」
子供たちを弥勒院に引き渡して、陽仁と晶良に行きましょうと声をかけた。
「ちょっと待ってくれ」
陽仁が慌てて弥勒院に向かって言った。
「なんですか?」
「なんで他の子供はここに連れてこないんですか」
弥勒院が面白いとでも言うように含み笑う。
「それは一目瞭然です。ここに来れるのはお友達として魅力のある人間だけ。たくさんのお友
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達に慕われている人間だけが来れる場所なんですよ」
「お友達って......、友達に上下なんかないだろう?」
すると弥勒院が呆れたというような表情を浮かべた。
「ありますよ。それがわかっている人間がエクセレントクラスに入れるんです。そちらの方は可能性がありますけど、あなたにはないですね」
お友達クラブと関わって初めて微笑みとは違う嘲笑を浴びた。
「弥勒院さん」
晶良が口を開いた。
「なぜ、僕に資格があるのか、今度聞かせてくれますか? 別に今じゃなくていいですから」
考え込むように弥勒院が穏やかな笑みを浮かべてから言う。
「いいですよ。東京に戻って連絡しましょう」
「僕から連絡します。電話番号を教えてもらえますか?」
弥勒院が面白そうに笑う。
「積極的ですね。わかりました。じゃあ、これをどうぞ」
弥勒院が尻のポケットから名刺入れを出して、一枚晶良に手渡した。
「ありがとうございます」
晶良がそう言ってニッコリと笑った。陽仁と晶良はそれ以上詮索せず、相良に連れられて階
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下へ降りた。
相良と別れて、二人は部屋に戻る。その途中、晶良が陽仁に向かって呟いた。
「弥勒院さんだけ雰囲気が違いました。中身があるんですけど、欲に塗れてなくて綺麗でした」
「ああ、何もかも完璧だったな」
「完璧すぎますね。完璧すぎるから、すごく胡散臭い......。まるで、見ただけなら釈にそっくりです」
「でも釈は中身が空っぽなんだろ?」
「なんなんだろう......はっきりした証拠はまったくないのに、何かが繋がってるんです」
「あの瓢ひょうたん箪みたいなものは証拠にならないのか? あと焦げ跡」
二人はお互いの部屋の前で佇んで話を続ける。
「お友達クラブと鳥羽さんは繋がった気がします。どちらも焦げ跡と瓢ひょうたん箪型のものがありますから。鳥羽さんと釈は釈の本と焦げ跡。でも、お友達クラブと釈は繋がってません」
「瓢ひょうたん箪型のマーク以外は、そうだな......」
「光輝さん......無事だといいんですけど」
「無事ってどういう意味だ?」
「いえ、気のせいかもしれないから......とりあえず、光輝さんに電話しないと」
陽仁が呆れた顔で言った。
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「お前、ここが圏外って調べてなかったのか?」
「え! そうなんですか?」
「仕方ないなぁ......。ここじゃなんだから部屋に入ろう」
陽仁の部屋に入り、陽仁はスマートフォンの電源を入れた。
「お、アプリに通知が来てる」
「通知?」
「うん。光輝さんと他に柘榴さん、翡翠さんに友達申請したんだ」
晶良の目が輝く。
「へぇ、そんなことができるんですか!」
そして一所懸命に画面を覗いてくるので、仕方なくベッドに腰掛けて、晶良が見やすいようにしてやった。
返事は柘榴からだった。光輝と翡翠からはなんの返事もない。仕方ないので、柘榴にチャットを送ってみた。
『柘榴さん、こんにちは。陽仁です。光輝さんは合宿から戻りましたか』
「文字を打つのボタンじゃないんですね! 液晶画面に触ったらなんか色々出てきますね」
陽仁は晶良からスマホを隠して念を押す。
「欲しがってもお前は駄目だ。第一お前、携帯メール打つだけで精一杯だろ」
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「まぁ、そうですけど......」
ピョコッという音がして、柘榴から反応があった。
『光輝から連絡なし』
それだけだった。
『いま、お友達クラブという怪しいグループの施設にいます。多分山梨の富士山麓のどこかです。圏外で電話が使えません』
『光輝にはGPSを取り付けている。現在は行方がわからない。お友達クラブの詳細をくれ』
(お友達クラブの詳細......)
陽仁が考え込んでいると、晶良が言った。
「柘榴姉さんと直接話ができるんですか?」
「多分......でもやめたほうがいいかもな。いくらパスワードつけててもワイファイの提供元がお友達クラブだったら内容を傍受されてるかも知れない」
「だったら、この内容も傍受されてますよ」
陽仁は晶良のネット知識に驚いた。
「お前よく知ってるな」
「テレビで言ってました」
「テレビかよ......」
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陽仁は晶良と話した推測をそのままチャットに書き込んだ。すると、柘榴から返事があった。
『至急お友達クラブについて調査する。連絡を待て』
陽仁はアプリを閉じた。
「GPSまで付けられてて連絡取れないって、光輝さんどうしたんだろうな」
「心配ですね。だからといってあの部屋に入るのは危険だし......」
「そうは言ってもこんな場所だと逃げられないだろ。監禁されてるんだぞ」
すると、晶良が不思議そうな顔をした。
「逃げられますよ?」
「は!?」
陽仁は驚いて口を開けたまま晶良に見入った。
「あ、あれか? 術法を使うのか」
「いいえ。癪ですけど、一つだけ方法があるんです」
「なんだよ?」
晶良がすごくいやそうな顔をした。
「瑪瑙姉さんの妖し世を使うんです」
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第六章
屋上からの壮大な展望は、遠く霞がかった町並みを蜃気楼のように見せている。昼間から温泉に入ろうというものは誰もいないらしく、陽仁と晶良以外人影はない。
富士を左手に、河口湖を右手に望み、二人はいつもの格好に着替えて露天風呂の脇に佇んでいる。手にはボストンバッグはないが、必要なものはショルダーバッグに詰めてきた。
陽仁は晶良がこんな場所で何をしようとしているのか、固唾を呑んで見守っている。晶良は陽仁にはっきりと瑪瑙の妖し世を使うと言った。けれど、なぜわざわざ屋上に出なければならなかったのだろうか。
「露天風呂で何をするんだ?」
「妖し世に行くのは室内じゃ無理なんです」
陽仁はペントハウスのガラスを通り抜けて妖し世に入りこんだことを思い出す。
「でも無むみょう名は......」
「あれは提灯を持っていたからです。でも、今それはないわけですから、妖し世に行ける式神を使うしかないんです。ここは一階にお友達クラブの人がいて出られないようになっているし、無防備なのはここだけですから」
202
たしかに一階に一度行ってみたが、入り口にはお友達クラブのリーダー格の男が見張りなのか椅子に座って警備していた。
それで仕方なく屋上まで上がってきて、露天風呂を前にして富士を眺めているわけだ。
「で、その式神ってなんだ? 妖かしを呼ぶのか?」
陽仁が聞くと、
「青嵐を呼びます。彼女は妖かしに近くて妖かしよりも強い神霊ですから」
「青嵐って妖かしなのか!?」
初めて聞く情報に陽仁は驚いた。
「別に妖かしではないんですけど、妖し世にも行ける神霊――仙せんこ狐なんです。青嵐が神しんこ狐になろうとしてなれなくて傷ついたままでいたところを僕と出会ったって話しましたよね?」
「多分......」
「青嵐は詳しいことを話してくれませんけど、彼女なら妖し世から空間を移動してペントハウスまで連れていってくれると思います」
「思うって......、そういうこと今までやったことあるのか?」
すると、晶良があっけらかんとして答える。
「ありません」
「ありませんってお前な......」
204
「青嵐」
晶良は陽仁を無視して青嵐に呼びかけた。
たちまち白檀の香りが辺りに満ちて青嵐の声がした。
「あい、主さま」
「僕たちを妖し世に連れていってくれないか」
しばらく青嵐は黙っていたが、姿を現した。襲かさねが幾重もある十じゅうにひとえ二単を着ているのに、暑い夏の日差しの下で汗一つかいてない凛とした清廉な女性だ。思案げに眉を寄せている。
「主さま、妾わらわはかの世の住人ではないゆえ、強い妖かしが来ても追い払うことしかできませぬぞ」
「ペントハウスまで送ってくれるだけでいいんだ」
「かの世は肌に合いませぬ」
式神なのに、青嵐は頑なに晶良のお願いを拒んでいる。
「これきりでいいんだ。もう二度と頼まないから」
珍しく青嵐が困り果てたような表情を浮かべ、それから仕方ないと頷いた。
「......ほんに、主さまは昔からおかわりのないわがままぶり」
「ごめんね、青嵐。ありがとう」
晶良が済まなそうに言うと、青嵐が苦笑する。
「では、妾の背にしかとお掴まりあそばせ」
205
その瞬間、目の前に大きな白狐がうずくまっていた。尾は四本、銀の艶を持つ白い毛だ。その美しい眼差しはたしかに青嵐のそれと同じだった。
「この姿になるのは今回限りですぞ」
普通の狐の何十倍もある、巨大な白狐が早く背に乗れと催促する。
二人は急いで彼女の広い背にまたがると長いふわりとした背の毛にしがみついた。
熱気が吹き起こり陽仁たちを包み込み、風圧が青嵐の前方から迫ってくる。富士が見えていた風景がぐにゃりと歪み、渦を巻き始めて、その中心に暗い闇が見え始めた。
「参る――!」
白狐は鈴の音のような声で吠えるとその渦のなかへ飛び込んだ。
頬を切る冷たい風が吹き抜けて、夏とは思えない涼しさが周囲を取り囲んだ。眩まばゆいほどの日差しから薄暮の地を白狐の前足が踏んだ。
薄暗がりの向こう側は闇に紛れてわからない。いつもならば青い燐光が辺りを照らすのだろうが、今は金の混じる白い光が陽仁たちを包み込んでいた。
「妖かしは妾の光のなかには入られませぬ。このまま参りまするぞ」
そう言って、青嵐はしなやかな四肢で妖し世の地を蹴って駆け出した。ペントハウスに開けられた穴に向かって。
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多分それは五分位の短い体感時間で、陽仁が青嵐を聞いたのは妖し世に入ってすぐだと思った。けれど、陽仁が目を開けるとそこは妖し世と変わらないくらい暗く、ペントハウスのリビングが見えるガラスの前だった。空を仰ぐと茜が差し、間もなく日が暮れる時分だった。
「早はよう下りてたもれ」
青嵐の声が聞こえた。
陽仁は慌てて白い背から降り立った。二人が青嵐の背から降りると同時に青嵐はもとの十じゅうにひとえ二単の姿に戻った。すっかり疲れ切ったような表情を浮かべ、袂たもとから扇子を取り出して、ピッと広げて口元を隠した。
朱しゅを刷はいた目元だけ見せて、恨めしげに晶良を見やる。
「主さま、ご満足かえ?」
「青嵐、すねないでくれよ、本当にごめんね」
青嵐は大きな白い耳をピッピッと動かすと、つんとそっぽを向いて姿を消した。
陽仁はあんなふうに晶良に接する青嵐を初めて見た。
「なんで青嵐は怒ってるんだ」
晶良が苦笑する。
「青嵐は、本来の姿になるのが嫌いなんです。今の姿になってとても長いから......」
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女性の心理はわからないけど、晶良には自分の見せたくない姿を見せてしまうくらいには心を許しているのだろう。
「多分傷付けられたときのことを思い出すからじゃないでしょうか......」
「傷つけられた?」
「青嵐は話してくれないけど、僕の前に姿を現した青嵐は、さっきの姿でケガレにまみれていたんです。憤りと悲しみが入り混じってて、今みたいにまともに僕と話もできなかったくらいでした。もし僕が青嵐を浄化しなかったら、彼女は祟り神になってたかもしれません。もっと悪ければ妖狐に堕ちたかも」
よくわからないけれど、青嵐の窮地を助けたのが晶良で、青嵐はその窮地に立つことになった姿を厭いとわしく思っているということなのだろう。
リビングには明かりが灯っていて、陽向の姿が見える。陽仁たちは玄関に周り鍵を開けて、帰ってきたことを告げにリビングへ向かった。
「ただいまー」
陽向が陽仁と晶良がリビングに入ってきたのを見て驚いた。
「あれ!? 帰ってくるの明日じゃないの!?」
「予定変更したんだ」
陽仁が素知らぬふりをしたのに、晶良は正直に口にした。
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「なんだか危ないところだったんで帰ってきました」
「じゃあ、みほりんは!?」
「彼女はエクセレントクラスに昇格して、特別室へ行ってしまいました。僕たちではどうしようもなくて、柘榴姉さんに救援をお願いしようと思って帰ってきたんですよ」
膝立ちになった陽向が落ち込んだ声音で続ける。
「じゃあ、みほりんはどうなっちゃうの......?」
「そのために早く、お友達クラブというのがなんなのか調べる必要があるんです」
陽仁は圏外になっていたスマホの電波がもとに戻っているのを確かめた。
「光輝さんに電話できる」
晶良と陽向が見守るなか、光輝に電話をかけた。
何度も呼び出し音が鳴るが、彼はとうとう出なかった。
「光輝さんがどうかしたの?」
陽向が不安そうに尋ねた。
「釈の合宿に行ってから行方がわからなくなったんです」
晶良が代わりに答えた。
陽仁は何度も光輝に電話をかけてみたが、やはり結果は同じだった。圏外とも出られないともなんのアナウンスもなく、ただ呼び出し音が鳴り続けるだけなのだ。留守番電話にもならない。
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「光輝さんにはGPSが取り付けられていたんだよな?」
「柘榴姉さんはチャットでそう送ってきましたね」
「そのGPSでもわからなかったのかな」
「柘榴姉さんなら衛星電話が使えるはずですから、圏外になることはないと思いますし、GPSを捉えきれないなんてことないと思います」
それでは光輝は一体どこへ行ったのだろう。それともわざとGPSを自ら取り去ったのだろうか。
結局光輝とは連絡が取れないまま、駄目元で柘榴に電話をした。
『なんだ、陽仁』
「柘榴さん、こんばんは、あの」
陽仁は言うことを整理しながら話そうとした。
『速すみやかに要件のみ伝えろ』
苛立たしげに、柘榴がちっと舌を鳴らす。光輝と連絡が取れないことを柘榴も心配しているのだろうか。
「チャットと同じ件です。光輝さんのことで......」
『光輝とは連絡は取れない。わたしが視ても、GPSを受信しても、一箇所から動かない。場所は、山梨の富士山麓にある施設だ』
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「え?」
陽仁は耳を疑った。
「それって俺たちがいた施設ですか!?」
『お前たちがいた施設と同じかはわからんが、チャットから傍受した情報では位置的に重なる』
陽仁は愕然として黙った。あの場所の何処かに光輝がいたのだ。釈の合宿に行ったはずの光輝が。自分たちがもう少し粘っていたら、光輝は見つかったのだろうか。
「陽仁さん......?」
晶良が心配して声をかけてきた。電話口で柘榴が命じた。
『晶良に変われ』
言われるままにスマホを晶良に渡す。
「姉さん、光輝さんはやっぱりあの施設にいるんですね? じゃあ、僕、戻ってみます」
『駄目だ。我々は出動の準備を整えている。すでに施設前に待機した状態だ』
スマホから漏れ聞こえてくる柘榴さんの言葉を聞いて、陽仁は呆然とした。柘榴の行動力は半端ない。それ以上に光輝の危機に対する対処が半端ない。
「光輝さんはあそこにいるのか。光輝さんはそんなに重要人物だったのか」
「多分。それに光輝さんの能力は人に憑いたものを見るだけじゃないんです。その人間の本質まで見抜くことができるんですよ。彼が一人で行ったのは釈に関係する人間の本質がわかった
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からです」
晶良が電話口から柘榴に話しかける。
「姉さん、本当は光輝さんから連絡があったんでしょう? だからすぐに突入の準備ができたんでしょう?」
柘榴の沈黙が耳に痛い。陽仁は固唾を呑んで返事を待った。
『中身が違うと言っていた。何かと入れ替わっているとな。それだけだ。我々が相手にするのは人ではない。本質は人ではないものだ』
「僕もそれは感じていました。でも確信がなかったんです。空っぽに見えたから」
『あれは容器だと言っていた。お前が説明したように人間の欲を溜めておく容器だ。他の人間はその欲でいっぱいになっていたが、釈だけが空だったと最後に報告してきた』
「空っぽ......容器......欲でいっぱい......。陽仁さん、釈とお友達クラブと焦げ跡が繋がった気がします」
「どういう意味だ?」
『なんの話をしている。これ以上無駄話を聞いている暇はない。切るぞ』
晶良が慌てて続けた。
「待ってください、最後に一つ。弥みろくいんかい勒院海という男性が実在しているか調べてほしいんです」
『要件はそれだけか? 時間がない』
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待ってくれという言葉も聞かず、柘榴は電話を切ってしまった。きっと突入の合図をするためだ。あの施設を制圧したとして、光輝さんの身は無事なのか、わからなかった。
「釈はみんなの欲を吸い取っていた......、釈の講演会で代理をした男性もそうです。僕は能力を閉じていたから全てを見ることはできなかったけど、あのときすでに光輝さんには見えてたんだと思います。あの男の人が体に欲を溜めていたのを」
晶良はここで陽仁の様子を窺った。
「あの時光輝さんは何も言ってなかったけど、合宿に参加するって言ったのはそのせいだったのか......」
「そうですね。お友達クラブのリーダー格の相良さんもなかが空っぽで、僕が見た限り、子供たちの欲を吸い取っていました。吸い取った欲はどうなるんでしょうね」
「それがわかったら、誰が何をしようとしてるかわかるんだな?」
「その通りです。最後に、忠明さんが父親の鳥羽さんから譲り受けた変なもの。あれも欲を吸い取りますよね。そして誰かがその欲を取り去っている」
「でも誰が浄化しているかわからないじゃないか」
「そこが問題です......」
「じゃあ、今のところわからないのは鳥羽さんの変な瓢ひょうたん箪型のものだけか? でも、相良が言ってたじゃないか。あのは卵で、素晴らしいものが生まれるって」
213
「問題はそこです。最後に会った、弥勒院さん。あの人は空っぽじゃなかったんです......。見ただけじゃわからないですけど、普通の人に見えました。それが不思議で名刺をもらって会ってみようと思ったんです」
何か手があるのかと陽仁は思って晶良に尋ねる。
「弥勒院に会ってどうするんだ? 釈と関係あるのかって聞くのか?」
「僕が知りたかったのは、あのエクセレントクラスという特別室のなかです」
「でも、入れなかったじゃないか」
「陽仁さん、弥勒院さんの名刺を見てください」
そう言って晶良がショルダーバッグから弥勒院の名刺を取り出して見せた。
「住所が二十三区内に三カ所あるな......」
「その一つが忠明さんの事務所の近くにあるんです。もしかしたらと思うんですけど、ちょっと忠明さんにカマをかけてみませんか?」
「カマ?」
「ええ、瓢ひょうたん箪を譲り受けることになったって」
「うまくいくかな......?」
「やってみないとわかりません」
陽仁は早速忠明の事務所に電話をかけてみた。
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『どうしたんですか? あれについてはもう話しませんから』
電話口に出た忠明は陽仁のことを異様に警戒しているようだ。
「実は弥勒院さんと偶然知り合いになりまして、瓢ひょうたん箪を譲ってもらえることになったんです」
忠明の沈黙が耳に痛い。陽仁は辛抱強く待った。
『......弥勒院さんがですか? あなたを選んだんですか?』
「正確には一宮のほうですが」
『あちらのほうですか。それは良かった。一宮さんも他の方と同様に素晴らしい卵を手に入れられたんですね』
忠明の声が興奮に上ずってくる。
「まだ、浄化はしてもらってないんです。でも俺たち以外にその卵とやらを受け取ってる人がいるんですか?」
『ええ、選ばれた人間だけが、卵を手に入れて、心と体を無にし、素晴らしい世界へ生まれ変わることが約束されているんです』
夢見るようなうっとりとした声が電話の向こうから聞こえてくる。
「選ばれた人間......」
晶良もそれを聞いて怪訝な顔をする。選ばれた人間。弥勒院が口にした言葉だ。
『全国にわたしのような選ばれた人間がいるという話です。弥勒院さんはそういった方々の卵
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を浄化して、わたしたちの体に巣食っている浅ましい欲を高次元のものに変えてくれるんです』
忠明が弥勒院の口にした言葉をそのまま復唱した。
「ところで忠明さんはその浄化には何回参加されたんですか?」
『二回ほどです。行けば行くほど体と心が満たされていきますよ』
「じゃあ、俺たちも楽しみにしています」
『ぜひ、お勧めします』
そう言って忠明は電話を切った。
陽仁と晶良は目配せして確信する。
「これでお友達クラブと鳥羽が繋がったな」
「エクセレントクラスの部屋が実はその卵を浄化する場所なんでしょうか......」
「相良や釈が体に溜め込んだものを吐き出す場所がエクセレントクラスの部屋だとしたら?」
「この住所全てにエクセレントクラスの特別室があるとしたらどうですか?」
「そのどれか一つでも潜入できれば他の特別室のことも推測できるってことか?」
「そのつもりです」
「ものすごい賭けだぜ? どれが当たるかロシアンルーレットみたいなもんじゃないか」
晶良が微笑んだ。
「そうでもないですよ。弥勒院さんは異様に僕のことを気に入ったみたいでしたし、彼に電話
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して指定した場所に行けばいいんです。彼はきっと僕を取り込もうと思うでしょうから」
陽仁は呆れ返った。
「それじゃあ、飛んで火に入る夏の虫だろ」
「いやだなって思ってるんですけど、考えはあるんです」
陽向が退屈そうに陽仁と晶良を眺めている。
「瑪瑙姉さんに頼むんです」
「あの瑪瑙さんか」
陽仁の背筋に冷たいものが走る。
「瑪瑙さんなんかに頼ったらろくでもないことにならないか?」
「この際仕方ないです。とりあえず殺されたりはしないでしょうから」
「代価とか言われないか?」
陽仁はおずおずと聞いてみる。
晶良が苦笑いを浮かべて仕方がないという顔をした。
「なんにでも代償はつきものですよ......」
その日の夜半に陽仁のスマホがピロンッと鳴った。柘榴からのチャットだった。
寝ぼけ眼で陽仁はスマホを手にとってチャットの内容を読んで、ガバリと体を起こす。
そこには簡潔に、『弥勒院海は三年前に死んでいる』とだけあった。
217
「じゃあ、あの男は一体何者なんだ......?」
陽仁の背筋がゾッと粟立った。
翌朝、まだ朝日が出る前に、晶良は庭に開いた妖し世への穴に向かって式を飛ばした。蝶の姿に変へんげ化した式はひらひらと穴へと消えていった。
「あんなとろっちいもんじゃなくてもっと早いものにすればよかったのに」
陽仁がとりあえず弁当を穴の前に供えた。
「瑪瑙姉さんは虫が好きだから、すぐ捕まえますよ。まぁ、その前に僕からの使いだってわかるでしょうけど」
「どのくらい待つんだ? もうすぐ夜が明けるんじゃないか?」
夜明け前の涼しい空気が徐々に熱気を含み始める。空も紺色から紫色に変わり始める。湿気と熱気が混在となって風に運ばれてきたとき、穴が少しずつ大きくなり、ぼんやりとした提灯の明かりが見え始めた。
提灯を提げているのは無むみょう名だ。相変わらず乱れのない執事姿をしていて、妖し世のなかにいるときの彼の手は節くれだっていた。
「主に用があるとか?」
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「そうです。今すぐ瑪瑙姉さんに会って話をしたいんです」
「主も会いたがっております。すぐに参りましょう」
陽仁と晶良は無むみょう名の後ろについて、妖し世のなかへ足を踏み入れた。
妖し世を抜けて明るい光のなかへ出たとき、陽仁は山の斜面だろうと覚悟したのに、足は草地を踏んでいた。目の前にはあの迷まよいが家がある。玄関の前にエプロンを身に着け相変わらず楚々とした瑪瑙が佇んでいた。
「晶良ちゃんから立て続けにお願い事って珍しいわね」
無邪気な微笑みを浮かべているけれど、瑪瑙が本当は何を考えているかわからないのを陽仁はいやというほどわかっている。だから最初に会ったときのような気持ちには到底ならない。
妖し世を通っていくうちに疲れ切った晶良が、それでも先に要件を伝えようと、息を荒げながら告げた。
「錬れんせい成してほしいんです」
瑪瑙が目を丸くする。
陽仁は錬成の意味がわからなくて戸惑った。晶良が陽仁を振り返って言った。
「陽仁さんは無むみょう名とここで待っていてください」
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「無むみょう名待っててね」
「はい、仰せのとおりに、主」
無むみょう名が自分の主人にうやうやしく頭を下げた。
それを陽仁は黙って見ていたが、ずっと気になっていたことを聞いた。
「無むみょう名は人形なんだろ? それがどうやったらそんなに人間みたいになれるんだ?」
無むみょう名が硬質な笑みを浮かべる。
「主が命を錬成してくださったのです。わたしには命があります。それがわたしの体を動かしているのです。この狭間にある様々な生き物は主が錬成して作り上げた作品です」
そういえば、瑪瑙は無からものを作り出す力を持っている。それが命だというのだろうか。でも、そんな命は狭間や妖し世でしか通用しないのではないだろうか。思ったままを無むみょう名に言ってみる。
すると無むみょう名がおかしげに笑った。
「今は主の言われるとおりに、わたしはこの狭間で奉仕させていただいております。別段、ここでなければ存在できない身ではございません。ただ主が望まれないだけなのでございます」
「瑪瑙さんが望まない?」
確か瑪瑙さんは自分で作り上げたこの妖し世との間に引きこもっていると聞いた。
「引きこもっているから?」
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「現し世にあまり自分の意味を見出しておられないだけです」
でもそんな瑪瑙は晶良や柘榴の服を作り、護符のための紙も漉すいている。現し世に十分貢献しているし、人形師をしているとも聞いた。
ただ、魔女と呼ばれて怖がられていることを除いて、瑪瑙が現し世を嫌う理由がわからない。やっぱり人間が嫌いだから顔を合わせたくないのだろうか。
「それならこんな狭間じゃなくて完全に妖し世に引きこもったほうが良くないか?」
「そうでございますね。しかしながら、それを決められるのは主ですので、わたしから口を出す必要はございません」
青嵐で式神に馴染んでいる陽仁からしたら、無むみょう名の従順さはある意味奴隷と同じだ。
多分、十分ほど話していたと思う。陽仁がもう少し無むみょう名に話しかけようとしたとき、玄関から出てきた晶良に声をかけられた。
「陽仁さんお待たせしました。行きましょう」
迷家に入ったときとあまり変わらない様子の晶良を、陽仁は怪訝に思う。
「もう大丈夫なのか?」
「ええ、すっかりいいです。じゃあ、瑪瑙姉さん、ありがとうございました」
「無むみょう名、今回は晶良ちゃんについててあげて。晶良ちゃん、提灯はプレゼントするから大切にしてね」
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陽仁は晶良の手元を見たけれど、提灯などどこにもない。一体何のことを言っているのだろうと訝しく思っていると、晶良が笑顔で頷いた。
「はい、主」
無むみょう名が深く頭を下げて、先に立って妖し世へと陽仁と晶良を導いた。
「晶良についてて、って、どういう意味だ?」
晶良が背後から答える。
「弥勒院さんのところへ無むみょう名にもついてきてもらうんです」
「え? でも、無むみょう名は現し世に出られるのか?」
「出られます」
無むみょう名が振り返らずに言った。
「でも、人形の......」
節くれだった指を彼は隠しきれるのだろうか。陽仁の不安を払拭するように無むみょう名が続ける。
「陽仁殿、わたしがなぜ瑪瑙さまの式神としてこうしていられるのかわかりますか?」
「いや、ぜんぜん」
陽仁が素直に答えた。
「わたしには実体がございます。それが瑪瑙さまの能力を特殊なものにしているのでございます。わたしは一部が妖し世でできておりますゆえ、妖し世に入ると人形である部分が見えてし
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まいますが、現し世に入れば、狭間と同じ姿になれるのです」
ということは人間そっくりになれるということか。
「陽仁さん、それは本当にすごい力なんですよ?」
背後で晶良が付け加える。
「どういう意味だ?」
「考えてみてください。僕の青嵐は神霊だけど、人には見えません。力だけを現し世に反映できる程度です。でも、瑪瑙姉さんの力は根本が違うんです。無から有を作り出す能力は、無から命を生み出す力です。姉さんはそれを妖かしに用いて試し続けて、無むみょう名を作り上げました」
「ということは、無むみょう名は妖かしなのか?」
「妖かしの一部を拝借しているんです。だから妖かしの世界に行くと妖かしの力だけが抜けてしまうんですよ。はっきり言うと、彼は現し世にいる限り人間と変わりないということです」
「俺と変わらないってことか」
「はっきり言うとそうですね」
それなのに、瑪瑙はなぜ今回晶良についていけと言ったのだろうか......。それがわからない。そんなことを話しているうちに、あっという間にペントハウスにたどり着いてしまった。
「そういや、お前、瑪瑙さんから提灯をもらったんだろ? 忘れてきたのか」
暗くて判然としないが、手ぶらの晶良の手を指して陽仁は尋ねた。
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「あとから届きます。今は必要ないから」
相変わらず夜は明けてない。今度は無むみょう名も妖し世の穴から現し世であるこの世界に入ってくる。
「久しぶりの現し世です」
そう言って無むみょう名が振り返った。その表情に陽仁は息を呑む。人形めいた無むみょう名がどこから見ても人間にしか見えない。
「どうです? これが瑪瑙姉さんの力なんです」
陽仁は後ろを振り返って晶良を凝視する。
「だから安心して、無むみょう名の力を借りましょう。彼ほど現し世で頼りになる存在はないですよ」
そう言って晶良はニッコリと微笑んだ。
七時に起きてきた陽向が無むみょう名を見て驚いた。
「お客さん!?」
ウヒャアと素っ頓狂な声を上げて、寝起きの部屋着を両腕で隠してリビングから出ていった。次に入ってきたときはちゃんと着替えて寝癖も直している。
(晶良のときは無防備なくせに、お客がいると違うんだな)
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女心はやっぱりわからないと陽仁は思う。
意外なことに無むみょう名は人間のように陽仁たちと食事をした。食後のお茶を飲み、陽仁が晶良、無むみょう名とくつろいでいるときに、晶良が時間を確認してきた。
「合宿の行程、午後三時に東京駅解散でしたよね?」
「そうだったっけ?」
「今から弥勒院さんに電話しましょう」
「でも施設は電波が届いてなかったぜ?」
「多分ですけど、電波が使えないのは参加者だけ。クラブの幹部は電話が使える可能性がありますよ。弥勒院さんとは東京で待ち合わせたほうがいいかも」
「でもそんなことをしたら、相手に俺たちをはめる準備をさせてしまうんじゃないのか?」
晶良が笑う。
「あちらは、いつ僕たちが来ても困らないですよ、きっと。そのために無むみょう名に来てもらったんですから」
無むみょう名が一体何の役に立つのかわからないけれど、晶良がそういうのだから相当な力を持っているのかもしれない。
「電話は僕がします。陽仁さん電話貸してください」
あれ? と陽仁は思う。晶良があれほど用心して持ち歩いてきたショルダーバッグを持って
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いない。
「お前バッグはどうしたんだ?」
「あ!」
晶良が慌てたように声を上げた。
「しまった、瑪瑙姉さんのところに忘れてきました」
陽仁が慌てて無むみょう名を見やる。
「無むみょう名に瑪瑙さんのところに送ってもらったらどうだ? あのなかにはお前の仕事道具も入ってるだろ?」
意外なことに晶良が呑気な様子で言った。
「今回は自分の力を使います。これでも観想念だけで力が使えるんですから」
「でも、お前、自分の力を使ったらまずいじゃないか」
「大丈夫です。そのために瑪瑙姉さんから大量に薬湯を飲まされましたから」
それを聞いて陽仁はゾッとして口をつぐんだ。あの味を思い出したのだ。それを大量に飲んだという晶良に感服する。自分には無理だ。
陽仁は晶良にスマホを貸し、彼が弥勒院に電話をかけるのを黙って見守った。
「弥勒院さんですか? 僕です。特別室の前で会った......」
晶良がスマホをスピーカー状態にして、弥勒院との会話がみんなに聞こえるようにした。
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陽仁はそれを見て晶良がいつの間にスマホ操作を覚えたのか不思議になる。
『ああ、わざわざ電話をしてくれてありがとう。施設からいなくなって君を探しているところだったんだよ。どこにいるんだい?』
陽仁は慌てて会話に集中する。
晶良が続ける。
「急用ができてうちに帰ってきちゃったんです。心配かけてすみません。ところで、今日お会いしたいんですけど、大丈夫ですか?」
『今日? 随分慌ててるんだね。わたしかまわないよ。どこで会おうか。好きな場所で会うよ』
「じゃあ、名刺に書かれている場所のどこかでお会いしませんか?」
『そう......、じゃあ、港南区のマンションにしよう。今からそちらに向かうから、会えるのは十二時以降になるかな......』
「わかりました、そのときにそこで」
そう言って晶良は電話を切って陽仁に返した。
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第七章
心地いい羊水の中で膝を抱いて美穂は惰眠をむさぼる。なぜこうなったかわからない。でもこれでいいのだと思える。今まで抱えていた悩みも欲求も何もかもが昇華されて、ただ心地いい気分だけが心を支配する。
こうなる前に何か見た気がする。それが自分をさらに気持ちよくさせた。初めてだったのにそんなことも忘れてしまうくらい、快感が背筋から脳髄へ根を伸ばして絡みついてきた。
誰か男の人が自分を特別に抱きしめてくれて、体を割り割かれて中身を引きずり出されてしまう。それなのに叫ぶのがやめられない、絶頂が自分を襲ったのは覚えている。
それから先が闇の中で、気がつくと羊水の中で眠りを貪っていた。体の中で変化が起きている。多幸感が全身に染み渡る。それなのに、体を何かが蝕んでいるのもわかる。
エクセレントクラス......。こんな素晴らしい経験ができて嬉しい。このことを誰かに知らせて教えてあげたい。こんな幸せを誰も知らないなんて不幸だと思いながら目を閉じた。
電話を切ってからおかしいと思ったのは、柘榴が突入したことを全く弥勒院が匂わせなかっ
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たことだ。柘榴の作戦は失敗に終わったのだろうか。
陽仁は疑問に感じたけれど、もし失敗に終わっても柘榴には次の作戦があるだろう。それとも、施設のなかにお友達クラブの連中だけがいなくなっていたのだろうか。
「どう思う?」
晶良に陽仁は尋ねた。
「多分後者じゃないでしょうか。お友達クラブの人たちが全員人間ではないのなら、柘榴姉さんの奇襲にも気付いたはずですから。それに光輝さんも伝言を残してましたし......」
「伝言? 光輝さんが、か!?」
「突入するって......たった一人なのに」
「突入......」
だとしたら光輝が報われない気がする。せめて、あの特別室へ連れ込まれてしまった子供たちだけでも助かっていればと思う。
晶良たちは所定の住所の近くまでタクシーで移動して、マンションまで歩いていった。その間に、用心深く陽仁は瑪瑙から貰った手てっこう甲を両手にはめた。
これに編み込まれた術法を一つ使うごとに指の感覚が一本ずつ失われる。しかも、を一匹でもいいから瑪瑙に届けなければ、指の感覚は戻らず麻痺したままになるのだ。
その恐ろしさに、今更ながら陽仁はゾッとする。しかし、覚悟して頼んだことだ。晶良の背
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中を守りたい気持ちに変わりはない。たとえ晶良にその必要が一切なかったとしても、自分がここにいる理由を知りたいのだ。
先頭を晶良が行く。その後ろに陽仁と無むみょう名が並んで歩いた。無むみょう名は燕尾服に似た軽やかな生地のスーツを着ている。とても戦闘力があるようには見えない。
「それ言えばこの手てっこう甲、どうやって敵を攻撃するんだ?」
大事なことを聞き忘れていたことを陽仁は思い出した。
無むみょう名が微笑んで教えてくれる。
「念じれば、その通りになりますよ」
「そんな簡単でいいのか? 呪文とか唱えないのか?」
「呪文や術式を簡略化できる特殊な武器だからこそ、みんな欲しがったのです」
「お前は何も持たなくていいのか?」
「問題ございません」
無むみょう名にあっさり言い切られて陽仁は口をつぐんだ。少し緊張していて落ち着かず、意味もなく喋ってしまう。そうしているうちに晶良が言った。
「あそこですね」
指差した先に目的地であるマンションがあった。
マンションの前には誰もいなかったが、エントランスポーチに入るとオートロックドアの前
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に弥勒院が佇んでいた。
「一人じゃなかったんだね、まぁいい」
相変わらず、芸能人のような男だ。綺麗というよりも端正という言葉がよく似合う。調和の取れた顔つきもその物腰も洗練されていて美しい。
「部屋は最上階だから。でも、あなたが来てくれて嬉しいよ」
オートロックドアを開けて、弥勒院が三人をマンションのなかに招いた。
エントランスポーチからドアをくぐり、マンション内のエントランスに入る。大理石張りの屋内は夏なのにひんやりとして涼しかった。
いや、寒いと言ったほうがいいかもしれない。
陽仁は覚えのある寒気にいやな予感がしたが、空気は変哲のない新しい建物の匂いだった。
(考えすぎか......?)
相手が泥でいそ蛆や屍しき鬼とは限らない。単なる化物相手の戦いになるかもしれない。ただ、気を引き締めているに越したことはない。しかし、周りを見ると身構えているのは自分だけで、無むみょう名も晶良も自然体だった。
あまりの危機感のなさに反対に呆れてしまう。
(おいおい、ここは敵地なんだぞ?)
意識して自然体を装うけれど、角を曲がったり、エレベーターに乗ったりするたびに、ビク
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リと体が震えた。
岡山のときのようにすくんでしまうようなことになりたくなかった。華奢な体で命を張って陽仁を守りながら化物や屍しき鬼と戦った晶良のことを思う。
もしも少しでも陽仁に力があったなら、あの時晶良のお荷物になることはなかったし、晶良に命を削るような真似をさせることもなかった。
自分を犠牲にしてでも、孤島に住む人間を助けたいという晶良の衝動がどこから来るのかわからないけれど、それは晶良が口走った言葉に由来するのかもしれない。
『自分のせいでみんな死んだ』
それを晶良は恐れているのかもしれない。もう誰も自分のせいで死なせたりしないように、細い体で踏ん張って頑張っているのかもしれない。だからこそ彼の背中を守り、ともに戦いたいのだ。
陽仁はぎゅっと拳を握った。エレベーターが最上階にたどり着く。電子音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。
目の前に大きい観音開きの扉があった。辺りはシンとしている。あまりにも静かで自分たち以外に誰もいないのではないかと思えてくる。
「さて、ここがエクセレントルームだ。君は入る資格があるけど、そこの二人にはない。ここで待っていてくれるかな?」
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弥勒院の言葉に陽仁は首を振る。
「いや、俺たちも入れてくれなけりゃ、力づくで入る」
弥勒院が嘲笑する。
「これは......、まったく物騒なことを言うんだな。やれやれ、君はなぜこんな人たちと一緒にいるんだい?」
晶良が当然だとでも言う声音で答える。
「彼らは僕の友達で仲間ですから」
弥勒院が肩をすくめる。
「仕方ないな。それではどうぞ」
弥勒院が観音開きの扉の取っ手を両手で持って、押し広げた。
むわっとした熱気が部屋から漏れて出た。
体臭と体液、得体の知れない液体の臭いが部屋中に満ちていた。部屋は暗く目を凝らしてやっと見える。しかし次第に目が慣れてきて、陽仁は思わず「あっ」と声を上げた。
年齢性別の関係なく人間が裸でもつれ合っている。彼らの周囲にはたくさんの大きな瓢ひょうたん箪が並べてある。もつれ合う男女を眺めるようにして、見覚えのある男が、部屋を全望できる場所にあるベッドに女たちと寝そべっていた。男は天を向いた肉塊を女にしゃぶらせている。
釈卓也が部屋に入ってきた弥勒院に向かって手を振って挨拶をした。
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「やぁ、ようやく連れてきたの」
「どうしても来たいと言ったからね」
弥勒院は何事もないかのように答えた。
裸の女のなかにはどう見ても十代の少女が混じっている。少年が少女を組み伏せ、グチュグチュと音を立てながら、無心に腰を振っているのが見える。淫唇を肉棒を貫く淫水が立てる音が部屋中に響く。反対に中年の男の腹の上で、腰を振りあられもなくよがっている少女もいる。妙齢の女が自分の息子くらいの少年の股間に顔を埋め、男根の皮を剥き口に頬張りじゅぷじゅぷと上下させている。
それを眺めている釈の股間には、猛って勃ちあがり血管の浮かぶ赤黒い肉棒が、淫水に塗れている。その上に肉付きのいいまろみのある尻をした女が、自らそれを熟れてトロトロになった淫口へ受け入れようとしていた。
根本まで釈の男根を飲み込むと狂おしく釈の腰の上でしゃがみ込み、上体を揺らす。
「手が放せないんだよ」
釈が爽やかに笑った。
「そのようだね」
にこやかに弥勒院が答える。
性の狂宴を繰り広げているなかには見覚えのある顔も含まれていた。お友達クラブのリーダ
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ー格の人間もいれば、エクセレントルームへ招かれて入っていった少年少女もいる。
「なんてこった......」
言葉に出来ず、陽仁はこの惨状を見つめるしかなかった。
「乱交パーティがエクセレントクラスの本性なのか......?」
陽仁は呻く。憤りに目の前が真っ赤になってくる。いたいけな子供が、彼らに蹂躙されて狂乱する姿に驚愕してもいた。
それを聞いて弥勒院が鼻で笑う。
「はっ、乱交パーティに見えるのかな?」
「それ以外に何に見えるんだ」
「ならば、君は性的に興奮したということだ」
弥勒院が嘲笑うように口元を歪める。
「君も同じかな?」
晶良が無感情な声で答えた。
「欲を交こうかん歓しあって増幅して何をするつもりなんですか」
すると、弥勒院が目を見開いて嬉しそうに囁いた。
「ここに満ちているものが見えているんだね。物事の本質だよ。そして命の源だ」
「こうやって増幅させ集めた欲を何に使うんですか」
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晶良が淫欲に満ちた部屋を眺める。
弥勒院が含み笑う。
「これは神意だ。さぁ、あなたたちもこっちに来るといい。そして心も体も空っぽにして、命の源で一杯にするんだ。そうすればわたしが生まれ変わらせてあげるよ」
弥勒院が晶良を引き込んだ。陽仁が慌てて弥勒院を押しやった。
どんと弥勒院はよろけて扉にぶつかる。
「馬鹿な人たちだ。素晴らしいものに生まれ変わるために彼らは自分たちの欲を極限まで大きくして体のなかで育てているんだ。邪魔しても意味がない」
晶良が弥勒院を睨みつける。
「こんなもので満たして何に生まれ変わるんですか。人ではないものにですか?」
クックックッと弥勒院が笑いを噛み殺す。
「人を超えたものだよ。そんなこともわからないんだな」
「そう、人を超えたものだよ」
弥勒院と同じことを釈も口にした。その顔が見る間に腫れ上がっていく。
陽仁は目を見張った。
風船のように釈の頭が丸く大きくなったかと思った途端、頭上からバックリと割れる。クリオネが餌を捕食するように、腐った花が醜い花弁を広げて咲くように、割れた頭が自分の膝の
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上で腰を振っている女の頭を飲み込んだ。
むわっと不快な臭いが辺りに漂う。血の饐すえた臭いに似ている。飲み込まれていく女の体を黒い液体が流れて伝う。腰のくぼみにたまり、尻の割れ目へと吸い込まれていくように落ちていく。
蛇が餌を丸呑みするように釈だったものが女を飲み込んだ。それなのに、釈の足元に寝そべる女たちは逃げようともせず、うっとりとした顔でその化物を見上げている。
人間の形に歪んだ釈の上半身がぐねぐねとゆらぎ、ぶちゅりと水音を破裂させて、大きな塊を吐き出した。その塊が床にゴロンと転がって落ちる。
それは巨大な瓢ひょうたん箪型の何かだった。薄い膜のなかで何かが蠢いているのが見える。膜は赤黒いもので染まっていた。
「卵......」
晶良が呟いた。
「卵!?」
陽仁は相良が言った、素晴らしいものが生まれる卵という言葉を思い出す。そして忠明が見せてくれたものが脳裏をよぎる。大きさこそ違うけれど形はそのまま同じものだった。
膝を抱えた人間と同じくらいの大きさの卵が、部屋中に転がっているのだ。それは粘ねばつ着く魚臭い液体にまみれ表面が凸でこぼこ凹と動いていた。薄い乳白色の膜のそれは、蛇の卵に似ている。
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呆然と惨さんたん憺たる光景を眺めているうちに、部屋中に転がる卵の表面が破れて、なかから全裸の人間が転がり出た。
「彼らは素晴らしい完璧なものになるための段階を迎えた......」
囁くように弥勒院が晶良の耳元で言った。
「これは素晴らしいものじゃないです」
「あぁ......」
耐えられないとでも言いたそうに弥勒院がため息を付く。
「相変わらず晶良は馬鹿だなぁ......。なぜこれがわからないんだ?」
それは慈愛に満ちた、小さな子供にでも言い聞かすような口調だった。
その瞬間、真正面を見つめていた晶良が、さっと弥勒院に目を向けた。その顔が驚愕に歪んでいる。わなわなと震える声を漏らす。
「猛たける流兄さん......?」
「残念だよ」
晶良が弥勒院の襟元を掴むより早く、嘲笑を浮かべた顔が内側にベコッとへこんだ。皮という皮に皺が寄り、服と一緒に床へと崩れ落ち、床に着いてしまう前に黒いあぶくになって消えていく。残されたのは見覚えのある焦げ跡だった。
陽仁は晶良が驚愕の表情のまま固まっているのに気付き、肩を揺らした。
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「晶良、しっかりしろ!」
二人は釈のほうを振り向いた。彼は立ち上がり、だらしなく広がったままの頭をこちらに向けて笑っていた。舌も歯も口もないはずなのに、言葉がはっきりと部屋中に響く。
「さぁ、皆さん! 素晴らしい体に生まれ変わりましょう!」
それだけでなく、卵から生まれでた人間が、血潮に似た液体にまみれて這ってくる。襲ってくるというよりも逃げ出そうとしているかのようだった。
這う人間と交わる人間が混ざり合う。重なるように裸の人間が山を作っていく。そのなかには赤い液体に染まりベタベタに羊膜のようなものを肌にまとった美穂も混じっている。
レバーに似た血の塊が彼らの体にまとわりついて、押し潰されてすり潰され、さらに塗り込められていく。
陽仁はただそれを見つめるしかなかった。どうすればいいのかわからなかったのだ。彼らは人にしか見えない。泥でいそ蛆もいなければ、屍しびと人も屍しき鬼もいない。どうやって攻撃しろというのか。
それなのに晶良が言う。
「彼らを助けようと思ったらいけませんよ。空になった分だけ吸い取ろうとしてきます。命が欠けたものもいます。死にたくなかったら下がっていることです」
そう言いつつ、前に進もうとする。
「ま、待て、晶良!」
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陽仁も部屋のなかへと踏み込もうとした。しかし、悪臭が顔面にぶつかってきて、思わず咳き込み顔を歪める。
晶良の向かう先には手当たり次第に人間を飲み込んでは卵を吐き出し続ける、釈がいる。晶良が狙っているのはその化物なのだ。
晶良が人の山を踏みつけて乗り越えようとするとその足を、人間だったものが掴み引きずり降ろそうとした。よろけながら頭が大きく裂けた化物へ晶良が向かっていくのを見て、陽仁は走り出そうとした。
しかし、それを後ろから羽交い締めにされてしまう。耳元で静かに無むみょう名が言った。
「あなたは死んでしまいます。彼を助けてはいけません」
「でも、晶良は人間だ! お前と一緒にするな!」
赤黒い人間だったものはエクセレントルームの外へは出られないようだった。それが彼らの結界なのだ。
晶良はどんどん釈へと近づいていく。
釈の背後が歪み渦を巻いて、暗い穴が口を開けた。そこからいきなり鼻を突く硫黄臭が襲ってきた。
(硫黄臭!?)
陽仁はよりいっそうもがいた。それなのに自分を押さえつける無むみょう名の腕を離すことができな
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い。
そうしている間に、さらに穴が広がり、部屋全体が歪み始める。血糊の臭いよりも硫黄の悪臭が部屋に満ち溢れて、吐き気を催す。
完全に穴が開き、ドーンドーンという地響きが聞こえ始めた。その音はやがて、部屋中を揺るがす、バンバンバンという音に変わり始めた。
天井がへこみ、パースが狂い始める。床は泥のように沈み込み、壁や何もかもに歪ひずみが生じた。
上半身が八枚に割かれた釈が赤黒い花びらを揺らしながら叫んだ。
「ようこそ、エクセレントな世界へ!」
その体を翻ひるがえして暗い奈落へと消えていった。
それと同時に、背筋が凍るような唸り声が穴から漏れて出た。洞穴を吹き抜ける生臭い風が音を立てて皮膚に突き刺さってくるようだ。
バン!
部屋中が揺れた。
バン!
穴から剛毛の生えた巨大な手が生えた。それが穴の縁へりを掴む。針か棘のような黒い毛が、盛り上がった浅黒い筋肉にみっしりと生えて逆だっている。
大型獣の唸る重低音が部屋に響く。金属をすり合わせる音も混じる。不快な軋む声が穴から
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生じる。
暗闇から、ネジ曲がった山羊のような角が現れた。その太さはゆうに人の体幹ほどある。徐々に現れた頭は、犬によく似ていた。その目の瞳孔は横に開き、あぎとには鮫さめの牙がみっちりと生えそろっている。
その舌は青黒いナメクジのようで、表面に細かな棘が生えている。それが汚物のような悪臭を放つ粘着く唾液を振りまく。
頭が完全に出てしまうと、今度は穴を無理矢理に広げてくる。ギシギシと音を立てて黒い空間が揺れるたびに、ボロボロと暗闇が落ちてくる。蛆のような泥でいそ蛆が黄泉の穴から溢れ出てくる。
「晶良!」
陽仁は大声を上げた。
(なんでだ! せっかく力を手に入れてもお前は背中すら守らせてくれないのか!?)
悲痛な叫びが晶良の耳に届いたのか、口元を微笑ませて晶良が振り向き、宙に呪しゅを描いた。輝跡がその線を浮かび上がらせて、晶良を取り巻く。
それは複雑な文様を描き、晶良を囲み、広がっていく。足元の赤黒い塊がその膨張に押されてゴロゴロと部屋の端に押されていく。
屍しき鬼は上半身を穴からひねり出して目の前に転がってきた人間を掴んで口に運んだ。ブチブチと肉が引きちぎられる耳障りの悪い音が陽仁のもとに届く。広げた穴から屍しき鬼が足を出す。
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毛深い足には蹄ひづめがあり、山羊の後ろ足のように歪んでいる。
その蹄が床を這う人間を踏みつけて穴から這い出てきた。
文様が屍しき鬼の体に押されて歪む。晶良の張った結界は屍しき鬼に通用しないようだった。屍しき鬼の歪んだ体が結界を押すたびに、晶良の細い体がよろけた。
「放せよ! 無むみょう名! お前はなんのためにここにいるんだ!」
陽仁はもがきながら叫んだ。
「まだ駄目です」
「何が駄目なんだぁ!」
陽仁の怒号が晶良の耳にも聞こえたのか、晶良が完全に振り向いた。
その真後ろに屍しき鬼が背を曲げて立ち上がる。そして巨大で長い腕を振りかざして大きく振りかぶった。
音もなく、結界を突き破って、晶良の首と体が引き裂かれ、どす黒い血しぶきが周りに円形に吹き飛んだ。
「うわぁあああ!!」
陽仁が叫ぶと同時に急に体が自由になり、陽仁の前に無むみょう名が飛び出した。
「無むみょう名!」
晶良の遺骸の上に立ち、無むみょう名が腕を大きく広げて円を描く。丸い円陣が暗闇に浮かび上がり
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光を放つ。その円陣は徐々に大きくなっていき、はっきりと五芒星だとわかるまでに広がった。
円陣のオレンジ色の鋭い輝きに屍しき鬼が呻うめく。
晶良が殺され、今度は無むみょう名が自分を犠牲にしようとしている。陽仁は自分の体が石のように固くなって動かないことを呪った。恐怖に体から血の気が引いていく。
あとは自分しかいない。陽仁は拳を握る。手てっこう甲の感触が蘇った。これがあれば、晶良の仇かたきが取れる! その思いだけで、動かない足の筋肉を捻ねじ曲げた。それなのに、部屋のなかに足が入っていかない。まるで分厚い壁があるようだった。
(なんでだ!?)
陽仁が動揺すると、背後から、聞き覚えのある声が響いた。
「オン ビシビシ カラカラ シバリ ソワカ!」
その声と同時に、ガラスがひび割れて崩れ落ちる音が部屋を満たす。
その瞬間、屍しき鬼が押し潰したはずの、晶良が張った文様が屍しき鬼を包んで蘇った。
陽仁の足元に見覚えのある提灯が転がり落ちる。
その間も五芒星の円陣を構える無むみょう名が屍しき鬼の攻撃を阻止している。
「陽仁さん! 今ですよ!」
腕をぐいと掴まれて、部屋のなかに引き込まれた。
陽仁は自分の腕を引く人物を見やった。見慣れた美しい顔がそこにあった。さっき微みじん塵に引
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き裂かれた晶良が、陽仁を見て微笑んだ。
「泥でいそ蛆を捉えるなら今です」
陽仁が屍しき鬼に向かって念じると同時に、晶良が手を突き出して手しゅいん印を組む。鋭い呼気とともに術法を展開した。
「ノウマク サラバ ビキンナン ウンタラタ カンマン!」
屍しき鬼を包んだ文様が金色の閃光を放ちながら狭まり、屍しき鬼を完全に取り巻いたと思った途端、その醜い体を文様の形に細切れにした。
陽仁の右手から放たれた、呪じゅし糸が網のように広がって屍しき鬼の周囲をさらって引き込んだ。
ヘドロと生肉を焼く匂いが周囲に満ち、閃光とともに青白い光がチラチラと部屋中に降り注いだ。それはゆっくりと雪のように床に落ちて消え、完全に屍しき鬼は塵になった。
陽仁が放った網は屍しき鬼を攻撃したあと泥でいそ蛆を捉え、シュルシュルと陽仁の手元まで戻って泥でいそ蛆とともに消えた。
それは全て一瞬のことだった。陽仁が呆然としていると、晶良が陽仁の肩をポンと叩く。
「陽仁さん、まだ終わってませんよ」
円陣の光を穴に向けている無むみょう名に向かって晶良が歩いていき、青嵐と朱しゅこう鸛に命じた。
「青嵐、朱しゅこう鸛、穴を塞げ!」
青白い炎と赤い炎が空中に生じて穴を取り巻いた。まるで端から塗り固めていくように穴が
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塞がっていく。とうとう完全に穴が塞がってしまうと炎は自然に消え、無むみょう名も自分の術を解いた。
すべて終わったと陽仁が息をつくと、晶良が陽仁に告げた。
「まだ安心しちゃいけません。最後の仕事が残ってます」
陽仁はそう言われて部屋の隅に転がっている赤黒い物体を見回した。もとは人間だったはずの存在だ。
「浄化できる人がいたらいいんですけど......」
(そうだった......犠牲になった人間がまだ残ってたんだった......)
晶良と無むみょう名がひとりひとり見ていく。
釈が黄泉に逃げ去ってしまったあと、欲を溜め込む力をなくした人間だったものは抜け殻のように身じろぎすらしない。
かろうじて身悶えているのは、卵から孵ったばかりの人間だった。それでも何度も卵から孵かえることを繰り返した人間は魂が黄泉に囚われて、体の内側を泥でいそ蛆に食い荒らされていた。
何十人もの人間のうち、かろうじて人間として生きているのは数人だけだった。美穂もそのうちの一人で息も絶え絶えに気を失っている。
血まみれの人間の山のなかから、か細い声が聞こえてきた。
「晶良さま......」
その声は光輝だった。
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「光輝さん!」
晶良が人の山から光輝を掘り当てた。光輝も卵から孵ったばかりのようだった。
「ははは......能力持ってかれちまいましたよ......」
しわがれた声で光輝が笑った。
「光輝さん、しっかり」
光輝の顔には白い膜が張っている。無理に卵から孵かえったせいだ。体が形成される前に生まれてしまったのだ。
「駄目だわ......泥でいそ蛆にやられちまった」
白い膜の下を灰色のものが蠢いているのが見える。
「そんなの駄目ですよ! 泥でいそ蛆なら僕が滅しますから」
「それに耐えられっかな......無理でしょ......」
光輝がニヒルに笑う。
「晶良さま......一息にやっちまってくださいよ」
どろどろに溶けた手が力なく床に落ちる。
「こんなんじゃ、もう、あいつを抱けねぇな......」
晶良が光輝を横たえた。
晶良が陽仁と無むみょう名に、まだかろうじて人間のままでいる犠牲者を部屋から出すように言った。
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「扉を締めてくださいね」
陽仁たちは晶良の言うとおりに、数人の男女を外に出して扉を閉じた。
閉じた瞬間、扉の隙間から白い閃光が漏れた。それはしばらく続いた後、太陽が雲に隠れるように輝きを失って静まった。
無むみょう名がそれを確かめてから部屋の扉を開けると、部屋の真ん中に晶良が倒れていた。
陽仁が慌てて晶良に駆け寄る。
「晶良!」
あの時と同じだ。岡山の孤島で化物を滅するときに晶良が放った光。それが晶良の命を削る。かろうじて息がある晶良に向かって、無むみょう名が言った。
「晶良さまはここにいる人間の魂を輪りんねかん廻環に戻したのでしょう。そうしなければ、泥でいそ蛆に憑かれた魂は泥でいそ蛆とともに黄泉へと堕おとされて、輪廻に戻れなくなりますから」
「晶良はそのたびに自分の命を削るのかよ?」
納得ができない。なぜそこまでするのだ。陽仁は臍ほぞを噛む。
「それが晶良さまの使命でございますゆえ」
「使命だって!?」
陽仁が憤ってに八つ当たりした。
「一宮家のものはすべて使命を負って力を顕現いたします。それに逆らえば、神意を与えたも
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のの手で命を取られることになっております」
「納得いかねぇよ!」
陽仁が叫ぶと、苛々した女の声が響いた。
「何をしておる。主さまを早う、介抱せぬか。朱しゅこう鸛が苛立っている」
青嵐が空中から現れて、扇子を広げ凄惨な光景に眉を顰ひそめる。
「おお、穢けがらわしい」
そう言うと、ふわふわと宙を舞っている玉虫色の領ひれ巾をさっと振った。それを何度も繰り返す。繰り返すごとに部屋から饐えた臭いが消えていく。代わりに白檀の香りが充満した。血にまみれた晶良の体も拭われたように綺麗になる。
目を閉じた晶良の口から重厚な男の声が漏れ出る。
「主あるじに滋養のあるものを」
(うわ)
この声は岡山で晶良が同じように倒れたときに何度も聞いた声だった。晶良が気を失っているときはこうして朱しゅこう鸛が表面に現れて、晶良の代わりに飯を食う。彼の言う滋養のあるものとは肉のことだ。
「早うせぬか、うつけ者」
青嵐からも急かされて、陽仁は晶良を背中に担いだ。いくら華奢でも晶良は男だ。重たい
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......。陽仁はよたよたしながら晶良を担いだままマンションを出た。
あれほど凄烈な戦いを経たと言うのに、外はまだ明るかった。陽仁からしてみたら半日は経ったように感じたからだ。
真っ昼間の町中、晶良を担いで無むみょう名と歩く。足取り軽くとはいかないまでも何かが一段落ついたように思えた。
肉と言われても何も思いつかない。陽仁は空を仰いだ。青い空が少しだけ薄い雲で白みかかって見える。
「ファミレスにでも行くかぁ......」
そう言って、陽仁は晶良を担ぎなおして、よたよたとファミレスを求めて歩き出した。
ファミレスでなんとか意識を取り戻した晶良を連れて、無むみょう名とペントハウスに戻ると、両脇を長く伸ばしたボブカットにグラマラスな体を黒いスーツに包んだ柘榴が、リビングのソファに座って晶良の帰りを待っていた。
相変わらず鉄壁のポーカーフェイスだ。美人なのにと陽仁はいつも思ってしまう。
ぐったりとした晶良では話にならないと判断した柘榴が、陽仁を詰問する。
「場所、被害、現状を報告しろ」
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事の次第をすべて説明する。陽仁から目をそらして柘榴がポツリと呟いた。
「光輝はどうした」
光輝の最期を言うべきか迷って、陽仁は言葉少なめに答える。
「立派な最期でしたよ」
「そうか......ならいい」
それだけ言うと、柘榴は目をつぶった。しかし、すぐに立ち上がり、鋭く言い放つ。
「肉を届けさせる。焼いて晶良に食わせろ。生がいいなら馬刺しでもなんでも送るから遠慮なく言え」
「は、はい」
なんだかんだ言って、晶良は姉たち全員から愛されている。だから、過去に何があったか知らないが、自分を責めないでほしいと陽仁は願った。
結局晶良を畳に寝かせて、陽仁と陽向と無むみょう名は座卓を囲んだ。
「なぁ、。あの晶良は何者だったんだ......?」
記憶にある屍しき鬼に殺された晶良を思い出す。
無むみょう名がこともなげに答える。
「あれは主あるじが作った人形でございます。魂を錬成して晶良さまに似せて作った木でく偶でございます」
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「なんだって......?」
「主は防御する力のほうが長たけておりますゆえ、そのためにまずは防御を固めて攻撃をする手はずでございました。しかし、陽仁殿がそれを知っていると敵にバレてしまいますので、主から黙っているようにと命じられておりました」
「くぅう」
(俺だけなんも知らんかったのか!)
「ねぇ、アニキ、この前から思ってたんだけど、この人誰?」
さっきから黙っていた陽向が陽仁に尋ねる。
「無むみょう名と申します」
「こんにちは、無むみょう名さん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
陽向と無むみょう名が頭を下げあっているところへ、いきなり空間に穴が開き、大きなかごを持った瑪瑙が飛び込んできた。
「晶良ちゃん、大丈夫なの?」
一応瑪瑙も心配だったらしく急いでやってきたようだ。すぐさま晶良のもとに駆け寄った。
「どうも、瑪瑙さん......」
瑪瑙がはじめて陽仁の存在に気付いたような顔をしてみせる。それから思い出したように微
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笑んだ。
「届いたわよ。わたしの家の周りを山やまわろ童がウロウロしてて苛々したけど」
と言って見せたのが瓶詰めの泥でいそ蛆だった。
「うわっ!」
「うふふ。これを今からどうするかとっても楽しみ。それと、これ、指の麻痺を治す薬湯ね。それからこっちは晶良ちゃんに飲ませてあげてね」
二つの小瓶が座卓に置かれる。一つは真っ黒で、陽仁と書かれている。もう一つは真紫色であぶくがブクブクと浮いてきている。
陽仁は顔を歪ませて無理に笑ってみせる。
「あ、ありがとうございます」
どおりで人差し指が思い通りにならないと思った。と陽仁は自分の指を見た。
「無むみょう名、行くわよ。じゃあね、晶良ちゃん。また薬湯を持ってきてあげる」
半分眠っている晶良には瑪瑙の声は聞こえてないだろう。聞こえていないほうがむしろ幸せかもしれない。きっと回復するまで瑪瑙は晶良に薬湯を届けるに決まっている。
陽向がバタバタと人が入れ替わり立ち替わりして出ていったのを、唖然として見守っていた。
「アニキ、なんで晶良ちゃん寝込んでるの? それにあの人たち誰?」
どう言ったらいいかわからないと思いながら簡潔に説明してみる。
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「晶良は力を使いすぎたから。男のほうは式神で女の人は晶良のお姉さん」
「えー、晶良ちゃんのお姉さん、三人だけじゃなかったんだね。で、これ何?」
陽向が座卓の上の不気味な液体を指差す。
「こ、これは......お前は飲まなくていい汁」
「あ、そうなんだ......よかった......」
心から安堵したように陽向が呟いた。
陽仁は憂鬱な気分で不気味な液体を見るのだった。
晶良が体を起こせるようになるまで、瑪瑙は晶良にあの不気味な液体を届けた。かく言う晶良はすっかり観念して、おとなしく恐るべき薬湯を飲み干した。ひどい咳込みとえづきを繰り返していると、いつも無むみょう名が竹筒に入れた白湯を飲ませてくれる。それがなかったら二日は異常な味に苦しむことになる。
「あの時、晶良ちゃんから自分の人形を作ってほしいって言われて、ほんとに驚いちゃったわ」
「あのときは仕方なかったんです。瑪瑙姉さんの人形は防御力が凄まじいから」
「うふふ。妖かしのお陰。あの子たちは極端に自分を守る力があるのよ」
「それと提灯もありがとうございます」
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陽仁がそれを聞いて、晶良の部屋にある提灯を見やる。
「あれが持てるのは、瑪瑙さんと無むみょう名だけじゃなかったのか?」
「あら、誰がそんな頭の悪いことを言ったの?」
晶良が苦笑する。
「僕です」
「まぁ、晶良ちゃん。提灯が欲しいって言ってくれたらいつでもあげたのよ? 遠慮しなくてよかったのに。でもこれでいつでもわたしの家に遊びに来れるわね」
瑪瑙がウキウキした声で言った。
「姉さんが僕を閉じ込めたりしなかったら、少しは遊びに行ってもいいです......」
今回大きな借りができてしまった晶良は深いため息をついて、自分をおもちゃにして遊びたがる姉に答えた。
それから一週間、すっかり体調が戻った晶良に、柘榴から電話がかかった。
緊張して電話に出た晶良に向かって、柘榴が言った。
『喪服を着てすぐに一宮の菩提寺に来い』
「は、はいっ」
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電話を切った晶良が一言。
「僕、喪服持ってません......」
それを聞いた陽仁も顔を歪める。
「俺もだ......」
急いで喪服を揃えた二人は、長野にある一宮家の菩提寺にJRで向かった。
道中、陽仁がスマホのチャットで翡翠に尋ねると、
『やっと光輝さんを清浄化したから納骨できるようになったのよ』
そこで、陽仁は疑問に思う。光輝は佐伯のはずだ。なぜ一宮家の菩提寺に納骨されるのだろう。
『それは光輝さんが、昔、一宮の女性と結婚してたから。あと柘榴姉さんの希望なの』
「柘榴さんの?」
ますますよくわからない。
『一宮の人って佐伯の人と結婚できるんですか?』
『できるわよ。現にわたしたちの父親は佐伯の人間だったもの』
(知らなかった......)
『佐伯はもともと一宮の分家なの。時々先祖返りして強い力を持った人間が生まれるのよ。そういう男女は一宮家の男女と目合わせて結婚することになってるわけ』
『そうなんですね』
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だから光輝は一宮の墓に納まることになったのだ。けれど柘榴の希望とは一体どういうことなのだろう。
「なぁ、晶良。柘榴さんは、なんだか光輝さんを救助するとき、すごい焦ってたように思うんだけど......」
晶良が駅で買ったまんじゅうの箱を開けて電車のなかでむしゃむしゃ食べながら、ちらりと陽仁に視線を向けたけれど、すぐに車窓から外を眺める。
「そうでしたっけ?」
「そうだったような気が......」
陽仁の脳裏に、光輝の最期を聞いた柘榴の姿が浮かぶ。いつになくポーカーフェイスが少しだけ崩れたように見えたからだ。
菩提寺に着いてから、陽仁は他の生き残った人たちはどうしているか、翡翠に尋ねた。
翡翠は顔立ちが晶良によく似た美人だ。背が高く、長い黒髪を一つにまとめてきっちりと結い上げている。
柘榴はいつも以上に険しい表情でとてもじゃないが話しかけづらかったのだ。
「みんな病院に収容されてるわ。泥でいそ蛆に蝕まれた体内をもとに戻すのに、瑪瑙姉さんに頼らないといけなかったけど」
「卵から孵った人たちの体の中に泥でいそ蛆がいたんですか!?」
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「そうだ。泥でいそ蛆が臓器や肉の代わりをしていた。それを修復することができるのは、遺憾ながら瑪瑙だけだった」
苦々しい表情で隣にいた柘榴が答えた。遺憾って言うことはあまり納得行くようなやり方ではなかったってことなのだろうと、陽仁は推測した。
「泥でいそ蛆に体を乗っ取られてたってことですか? でもそうしたら死んじまうんじゃ」
驚いた。晶良がいつも説明してくれることと違う。泥でいそ蛆は人の悪心や欲望を食べる時に人の生気も食べてしまう。だから取り憑かれた人間は死んでしまうのだ。
「臓器の代わりをしていたから、我々も晶良も人と区別がつかなかったのだ」
「泥蛆が臓器の代わりになるんですか!?」
すると、柘榴が神妙な顔つきで答える。
「死体蘇生者......泥でいそ蛆を自在に操れるものには可能だろう」
晶良が何かを理解したように呟く。
「屍しびと人使いですね......」
「生きたまま屍人にするつもりだったのかもしれん。そうなると晶良や光輝にもわからない」
陽仁にはさっぱり意味がわからなかった。
納骨はつつがなく終わり、帰りは翡翠たちとともにヘリに乗って帰途についた。
ヘリのなかでも柘榴は外を眺めたまま、一言も口を利くことがなかった。かと思ったらおも
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むろに左手の指にはめていた指輪を抜き取り、ヘリの外へ投げ捨てた。
「わ、どうしたんですか」
陽仁が驚いて言うと、柘榴が一言口にした。
「もう必要なくなった......」
そしてまた黙り込んでしまった。
それからしばらくの間、翡翠から陽仁のSNSチャットに、柘榴の酒癖をなんとかしてほしいという愚痴が届くようになった。
陽仁が呆れたようにそれを晶良に見せると、彼はポツリと呟いた。
「ほっといたらもとに戻りますよ。柘榴姉さんは強い人だから」
陽仁はその言葉の意味がつかめず、キョトンする。
「なんでだ? なんで、柘榴さんを放っておいていいんだ?」
晶良は薄く笑った。どことなく悲しげに。
「陽仁さんが知らなくていいこともあるんです」
「なんだよ、それは」
晶良の表情を見てそれ以上は突っ込まないことにした。
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猛たける流と言う男、屍人使い、おそらくそれらが晶良を苦しめている。それが少しでも理解できたらと思う陽仁だった――。
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エピローグ
美穂は病院に運ばれてからなかなか回復できず、二週間たった今も入院したままだった。お友達クラブの合宿でエクセレントクラスに入れてもらったあとの記憶がすっぽり抜け落ちている。
起きていても、寝ていても、体のなかを蟲むしが蠢くようなざわつきがやまない。気持ち悪くて仕方なく、起き上がって病院内をうろつき回るのが習慣になっていた。
自分が随分嫌われたことは、見舞いに来てくれる友達が皆無だったから、痛いほど理解させられた。その原因はお友達クラブのせいだと恨んだ。
自分をお友達クラブに誘った上、恐ろしいものを見せつけたたかっちを恨んだ。死んで当然だと思った。たかっちの親はまだ自分たちの娘が生きていると思いこんで、捜索しているらしい。とっくの昔に死んでいるのにと美穂はいい気味だと嘲笑った。
警察は冷たくて美穂の言うことの半分も信じてくれない。親もそうだ。自分が幻覚を見ているか嘘をついていると思っているらしくて、この間、病室に精神科医がやってきた。
恨みと憤りで胸が破裂してしまいそうだった。
お友達クラブに誘ったのに来なかった友達が憎い。兄に反対されたからと言って来なかった
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陽向が憎い。そして、まるで外国のモデルみたいな少年を見せびらかす陽向を殺してやりたい。
自分がこんな目に合っているのは半分以上、陽向とその友達のせいだ。だから殺してやりたい死んだっていいと考えている。
今日も頭のなかでざわざわと蟲が騒いでいる。体のなかはすべて蟲に食われてしまったようで最近はざわつきがなくなった。
でも頭のなかはどうすることもできない。夜も眠れない。そしてそのざわつきが言葉になって自分に囁きかけるのだ。
――殺せばいいさ。
殺してもいいのだろうか。でも今の自分に自由はない。病室がある階をぐるぐると巡ることしかできない。今もナースの目を盗んで夜中に歩き回っている。
声は今日も囁く。
大丈夫。
必ず殺してやる。
任せてほしい。
きっと、きっとよ......。と、美穂は祈るように声に答えた。
そして、一層暗い影のなかに踏み込む。
突然、「あっ」と膝が折れた。片膝が折れると片方の膝も崩れた。そのまま床に転ぶと思ったら、
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そんなことにはならなかった。体ごと暗闇に飲み込まれて、意識も何もかも黒い泥のなかに沈んでいった。もう二度と這い上がることのできない淵の底へ。
美穂が消えた焦げ跡が、しばらくして、ぐちゃぐちゃとかき混ぜられた。どす黒く溶解した何かが、柱のように床から突き出す。泥粘土を固めてひっつけていくように徐々に形ができる。
それは精巧に作られた塑そぞう像のように床から現れた。黒髪やまつげの一本一本まで緻密に作られて生み出された泥人形だ。
真っ黒な人形は次第に色をなくしていき、いつしか生きている人間のように変わっていった。烏羽色の髪と黒目がちの瞳。ふっくらとした乳房に桃色の乳首は凝り固まり、歓喜に震えている。なめらかな肌にしなやかな四肢。細い腰にまだ幼い腰つき。桃色に染まった割れ目に淡い毛が生えている。形容しようのない美しさが見るものに得体の知れない恐怖を植え付ける。
美穂と同い年に見えるその少女は、美穂とはまるで似つかない別人だった。この世に生まれでたことを心から喜んでいるように微笑んだ。その笑みに段々と悪意が滲んでくる。それなのに少女はどこまでも美しい。込み上げてくる嘲笑を止められないと言った感じで笑いを噛み殺す。
ふいに少女は顔を上げ、窓際へ駆け寄った。
空には月が浮かんでいて、眼下には電気の切れかけた街灯が立っている。チカチカしている街灯を指差すと、途端にちらつきはやんだ。
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少女は窓を開けた。生なまぬる温い風が吹き込んでくる。その風が少女の艶やかな黒髪を巻き上げる。少女は窓枠に足をかけ、そのまま飛び降りた。
飛び降りた道の影が裸の少女を包み込むように歪む。水たまりのように飛び跳ねた影が少女の体にまとわりついて黒いワンピースに、くるぶしと足を包み靴になった。
少女は不敵に笑い、あどけない声で言う。
「四つ目の封印は解けたぞ、晶良」
闇と影が少女のあとを黒犬のように、鴉からすのように追っていく。夜の街へ、少女は紛れて消えていった。
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【登場人物】
一いちのみや宮 晶あきら良
普段は拝み屋。一宮一族の総領。黄泉の屍鬼を祓う屍鬼祓師。テレビショッピング、甘党の残念な美青年。体力維持のために大食い。四人の姉たちが苦手。仕事モード以外は力を発揮させないためにぼんやりとしていることが多い。温泉大好き。二柱の神霊を使役している。
諏すわ訪 陽はると仁
両親をなくし、借家からも追い出されて路頭に迷っていたところを、縁あって晶良に拾われる。何故か晶良のマネージャーとして雇われることに。熱血漢で世話好き、料理男子。だが、恋人なし。妹が一人前になるまでは結婚できないと思っている。
諏訪 陽ひなた向
陽仁の妹で、中学生。晶良ラブ。頭がよく、将来は弁護士か医者を目指している。
一宮 瑠るり璃
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晶良の一番上の姉。三日先の予知ができる。暫定総領。
一宮 柘ざくろ榴
晶良の二番目の姉。半径千キロを見通す千里眼、サイコメトラー。警視庁特別捜査室零課の課長。
一宮 瑪めのう瑙
晶良の三番目の姉。妖かしの世界に引きこもる、マッドサイエンティスト? 『ワルプルギスの魔女』と呼ばれている天才肌。
一宮 翡ひすい翠
晶良の四番目の姉。封印呪法に長ける。陽仁を雇った張本人。主に事務処理を担当。
佐さえき伯 光こうき輝
柘榴の部下で、一宮一族の分家・佐伯出身の能力者。人の本質、取り憑かれているかを見破る能力を持つ。過去の事件で厭世的な性格に。
高たかち知 理緒
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焦げ跡になってしまった少女。家出したと思われている。
久ひさいし石 美みほ穂
理緒の親友。お友達クラブの幹部になりたい少女。
相さがら良
お友達クラブのリーダー格。
鳥とば羽
高級テナントのオーナー。清掃を晶良に依頼。その後失踪。
鳥羽 忠ただあき明
鳥羽の息子。
弥みろくいん勒院 海かい
お友達クラブの幹部。
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釈しゃく 卓たくや也
コミュニケーション啓蒙書の著者。
猛たける流
過去の事件に関係する、晶良の従兄。故人。
少女
不明。
今回、作品を執筆するにあたって、知人のペンネームをお借りいたしました。
ありがとうございます。
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【特典SS】瑪瑙さんの妖かし実験は続く
瑪瑙の力は、何もないところから何かを生み出す力だと言われた。けれどその使い方がわからない。色即是空空即是色。釈迦の教えのような曖昧模糊とした哲学論理の力でしかない。
そして、自分の神がわからず、いまだに神意も得ていない。だから、瑪瑙は思ったのだ。神意を得るまでに自分の力を色々と試してみようと。
瑪瑙は少し変わった子というレッテルを貼られている。薬湯学が好きで、一宮の翁に師事して古文書を読みふける十三歳の少女だ。薬湯の腕前は翁の折り紙付きで、たまに人に頼まれて薬湯を煎じる。
けれどそれも最近は敬遠され始めている。なぜなら薬湯に自分で凝縮して使役する妖かしを混ぜ込むせいだ。
(人で試したい......)
幼い瑪瑙はそう思って、試作品をこっそり自分の姉弟で試した。失敗が多くて、なかなかうまくいかないことも多かったけれど。
瑪瑙にとって妖かしは道具でしかなかったのだ。
残念なことに妖かしはこの世に存在する力が希薄だ。妖し世においてようやく具現化する。
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唯一、夜明け前、日暮れ時に現し世に姿を形なす。それはまるで自分の力のようだ。やがて瑪瑙の考え方は妖かしのそれに似てきた。
妖かしから邪気を抜くと彼らは消滅する。だから邪気を練る。極限まで錬成するとそれは宇宙になる。でもそれだけでは命は消滅する。
けれどそういった探求は、人間と接するよりもずっと楽しい。
邪気を錬成したものに使役法を施して、それをあらゆるものに練り込めるのにも気づいた。妖かしには自らを守る特殊な力があることもわかって、錬成した妖かしで糸やロウソクを作った。
無から何かを生み出す。瑪瑙は妖かしを何万と使って使役を作り出し、もっと多くの妖かしを消滅させた。瑪瑙は妖かしにも恐れられる結果になった。
そうやって錬成した宇宙をもっと圧縮して、仮の魂を作り上げた。その器として瑪瑙は球体関節人形を作り、さらに呪言を施した器の中で永遠に消えない魂を持つ人形は、瑪瑙の強い式神になった。妖し世と現し世の間に入り浸る瑪瑙は、いつしか一族から『魔女』と呼ばれるようになった......。
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【特典SS】裸族柘榴さんと照れちゃう光輝さん
スタイリッシュというよりも、単純に無駄なものがないだけに見える柘榴の部屋に、ビーズクッションに座ってくつろいでいる光輝がいる。くたびれたジャケットを脱いで、袖をまくったシャツ姿で足を伸ばして、タバコを吸っている。ここではさすがにタバコを放ることもしない。用意された灰皿にはいくつかもみ消した吸い殻がある。
光輝の目の前に柘榴があぐらをかいている。何故か全裸だ。
「あのさぁ、課長。服くらい着ましょーよ?」
光輝は目のやり場に困ってやっと口にした。逢うたびに言っている気がする。
それに対して柘榴がぶっきらぼうに答える。
「家ではいつもこうだ。なぜお前の言うとおりにしなくてはならん」
柘榴のふるふるとした大きな乳房や、鍛えられて引き締まったウェストに、きゅっと持ち上がった尻がすべて見える。あまつさえ、あぐらをかいているから見せてはならない部分まで丸見えだ。
光輝の落ち着かない様子を見て柘榴が立ち上がった。
「茶でも飲むか」
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光輝の目の前を形の良い白い尻が通り過ぎる。
いつ見ても美味しそう尻だ。しかも円錐型の乳房がたまらない。それだけで光輝の気持ちは高ぶってくる。
「パンツくらい履いちゃどうですか、課長」
「二人きりのときは課長と呼ぶな。家で好きな姿でいるのはわたしの勝手だ」
「これだから裸族はいやんなるよ......、課長、ムラムラしてくるから困るでしょ」
柘榴が四つん這いになって光輝に近づく。
「なら、ベッドにでも行くか」
自然と上目遣いなる柘榴の表情がどうしようもなく愛おしくなる。光輝は苦笑いを浮かべる。
「ムードがないっすよ」
「ムードか......。考えておこう」
「まぁ、いいっすけどね......」
吸い殻を灰皿に置きながら、光輝はそのまま柘榴を引き寄せて、タバコの匂いがする唇を、柘榴の赤い唇に重ねた。
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【特典SS】流行りの○○が食べたい瑪瑙さんと主の願いを叶えたい無名さん
「無名、この分厚いホットケーキ食べたい」
現し世から無名が持ってきた雑誌を読みながら、瑪瑙が呟いた。雑誌にはおしゃれなお店やカフェの記事が載っている。
「分厚いホットケーキとはどのようなものでしょうか、主」
瑪瑙のために紅茶を煎れながら無名が雑誌を覗き込む。元来人形の無名には人間の食べ物のことなど何一つわからないのだ。
「食べてきて作って」
で、瑪瑙の結論はこうなるのだ。
自分は行けない。でも食べたい。無名は口にしたほとんどの料理を忠実に再現する力がある。
「分厚いホットケーキですね、わかりました。どちらに伺えば食せるのでしょうか」
無名が端正な顔で不思議そうに瑪瑙に尋ねた。
道に迷ってしまって無名が戻ってこれなくなったら食事を誰が作るというのだろう。自慢ではないが、瑪瑙の自活能力は晶良とほぼ変わらない。
「じゃあ、晶良ちゃんに連れていってもらって。晶良ちゃん、こういうお店には異様に詳しい
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から」
すると無名がうやうやしく頭を下げる。
「承知いたしました」
そうなると、無名の服をどうにかしないといけない。さすがに執事姿はまずい。それに無名は主人の瑪瑙以上に人の常識には疎いのだ。
「晶良ちゃんと一番美味しいホットケーキを選んできて、わたしに作るのが今日のあなたの使命よ」
「はい、主。仰せのままに」
そう言って、無名は端麗な微笑を瑪瑙に向けた。
晶良の服を無名に着せて、衣服を届けるついでに、ホットケーキの店に連れていってほしいと言うように言い含める。絶対に瑪瑙が食べたいから行きたいなんて言わないように命じると、無名を晶良の元へ使いに出した。
晶良はいつものように無名から衣服を受け取って、いつもと違うラフな格好の無名に訊ねる。
「あれ、今日は正装じゃないんですね」
「はい、主が用意してくださいました」
「瑪瑙姉さんが......」
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何かあるのかなと晶良は邪推したが、いつものようにお茶に誘った。
「お菓子でもいかがですか?」
「お菓子よりもホットケーキの店に連れていってくださいませんか」
無名が真面目な顔で告げる。
晶良は首を傾げた。
「無名さんからそんなこと言うのは久しぶりですね。どこに行きたいんですか? また瑪瑙姉さんに頼まれたんですか?」
絶対にそうだろうと踏んで晶良は尋ねたのに、無名は表情ひとつ変えずに、ポケットにしまっていた切り取った記事を見せる。
「いいですよ。僕もこのお店行きたかったんです。ホットケーキなら他にも美味しいお店がたくさんありますし、はしごしてみましょう」
晶良は健気な無名に同情しながら、タクシーで当のカフェに向かった。
長い行列に並び、へとへとになった晶良と平然としている無名がボックス席に座ると、すぐにホットケーキを頼んだ。
二十分近く待ってやっと出てきたホットケーキはホカホカの出来たてで、ふわふわのスフレ生地だ。二段重ねのホットケーキの上に白いホイップバターが乗せてあって、ホットケーキと
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バターの接点がとろりととろけている。
「これはなんですか」
無名がホイップバターを指差すので、晶良は一つ一つ説明していった。二人はたっぷりメープルシロップをかけたホットケーキを堪能した。
無名がじっくりと味わうように食べている横で、晶良は二皿目を頼み、ぺろりと平らげると、次に行こうと無名を急かした。
「ホットケーキとはここだけにしかないのではないのですか?」
「ホットケーキにも色々とあって店ごとに違うから、全部味わってみましょうよ」
ほぼ自分が食べたいからという理由で、晶良は無名を連れ回した。
有名店から穴場の店含めて五店舗ほど食べ歩き、腹がくちくなってくる。
「お腹いっぱいになりましたね」
「そうでしょうか。わたしは大丈夫です」
これくらい回ればさすがの瑪瑙も満足できる味に出くわすだろうと、晶良はペントハウスに戻って無名を見送った。
迷まよいが家では今か今かと無名を待ち構え、そわそわと心ここにあらずといった感じで瑪瑙が薬湯を作っていた。無名が帰ってきたのがわかると、まるでなんでもないふうを装って無名を迎え
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入れる。
「晶良ちゃんにホットケーキを食べさせてもらった?」
「はい、五種類教えていただきました」
瑪瑙は思わず、にこぉっと笑顔になる。
「無名、早速一番美味しいホットケーキを作ってちょうだい」
山のように積み重なったホットケーキを前にして、瑪瑙は困り果てていた。一番美味しいという言葉が、無名にはまったく通じていなかった。全部美味しかったんだろう。もしくは全部作るべきと思ったのかもしれない。
ゆらゆらと危なげに段を重ねているホットケーキを、全部平らげなくてはいけないのろうかと眺め、今度からは言い方に気をつけようと決心するのだった......。
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【あとがき】
今回、念願の「屍鬼祓師」の続編を、同人誌という形で出せたことを喜ばしく思ってます。この度は、福田素子先生のご厚意で表紙等を書いていただけて重ね重ね嬉しいこと尽くめです。福田先生、ありがとうございます!
竹書房様から、二〇一三年に「屍鬼祓師」の番外編が世に出ましたが、それ以前から私の中で話はかなり膨らんでいました。そうしても愛着あるキャラクターのシリーズを書きたくて、いろいろな出版社に出してほしいと原稿を持ち歩きました。幸いなことに、創藝社様が二〇一五年に「屍鬼祓師」第一弾を出版してくださって、本当に飛び上がらんばかりに喜んだものです。
晶良も陽仁も何度も私に早く自分たちのことを書いてくれと言ってくるし、同人誌で書くべきか、それともこのままなかった事にするか長く悩んでいました。それを、福田先生や屍鬼祓師のファンの方に後押しされて、一大決心で書かせて頂きました。
少しでも皆さまに、屍鬼祓師の世界を味わっていただけていたらと思います。
粟生慧 拝
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はじめまして。挿絵を担当させていただいた漫画家の福田と申します。
「屍鬼祓師」を手にとってくださったみなさまありがとうございます。未熟な挿絵でありますが、ファンアートと思ってお許しください。
もともと粟生さんの竹書房さんから発行された「屍鬼祓師~夢見る卵」のファンだったのですが、ネットでお友達になり、はや数年。今ではコミティアでご一緒したり、折々に遊んでもらっております。今回「屍鬼祓師」の同人誌を出すにあたって挿絵の人を探していると聞いて思わず「はい!」と手を挙げた次第です。だって晶良くん大好きなんですよー(笑) そんなわけで、描かせてもらうことになったんですが...実は私挿絵のお仕事初めてなんですよ。そんなわけで「やらせて」と言ったもののかなり緊張して描きました。晶良くんのファンの方にイメージと違う! と叱られませんようにとドキドキしつつも楽しい挿絵作業でした。なにしろ制作過程の作品を一番に読ませてもらえるという特典付きですよ! 挿絵任せてくれて粟生さんありがとうです! 「屍鬼祓師」のお話はまだまだあると粟生さんから聞いているので、どうかぜひ感想を! 作品の感想をくださると次回作が出る可能性が高くなるかもですー。
福田素子
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【あらすじ】
その男、黄泉の鬼を祓う屍しきはらいし鬼祓師なり......
黄泉の屍しき鬼やその魁さきがけとなる泥でいそ蛆を祓はらうことを生業にしている一いちのみやあきら宮晶良とその助手・諏すわはると訪陽仁は、浄化を依頼された部屋で不可解な焦げ跡を目にする。
一方、陽仁の妹の中学校ではお友達クラブという正体不明のクラブが流行っていた。
お友達クラブ、不可解な失踪事件、謎の焦げ跡、奇妙な瓢箪型のマーク。それらを追っていくうちに、釈しゃくたくや卓也という男にたどり着く。それぞれがバラバラな事件に見えながらも、少しずつ繋がりを持ち始める。
その真相を解明するために、美麗な拝み屋が助手とともに失踪事件の謎を紐解く怪奇ホラーミステリ!
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奥付
屍鬼祓師 お友達クラブ
二〇一八年四月三十一日 第一刷発行
著者/装丁 粟生慧 ©AoSatoru
イラスト 福田素子 ©FukudaMotoko
発行人 粟生慧
連絡先 aosatoru@gmail.com
HP https://aosatoru.wixsite.com/aosatoruworks
印刷所 本文/ちょ古っ都製本工房・カバー/プリントパック
本書の無断転載、コピー・複製配布は著作権法上禁止されています。
商業誌/「屍鬼祓師塩飽島の巫女」/「屍鬼祓師夢見る卵」/他乙女系小説全国書店発売中。電子書籍あり。
同人誌/「記憶にたたずむ」文芸/「キメラの島」ハイファンタジー BOOTHにて通販。